鳳山雑記帳はてなブログ

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続菊池一族の興亡・余話①  田島重賢のこと

 資料保存用記事に付き面白くありません。
 
 菊池家最後の当主菊池義武を支えた二人の重臣のうち、鹿子木寂心に関しては割合知られているものの、もう一人田島重賢という人物は謎であると前記事で書きました。
 
 あれからいろいろ調べたんですが、はっきりとしたことはやはり分かりませんでした。ただ断片的資料からこうではなかったか?と推定出来たのでそれを記そうと思います。
 
 
◇出身
 
 玉名市史の資料には玉名郡大野別符内古閑(こが)の社家出身とあります。古閑というのは玉名市岱明町睦合(むつあい)地区の県道168号線を睦合小学校から西照寺地区に抜ける途中、古閑団地から雲雀ヶ丘団地のあたりの地名です。
 実際に現地に行ってみたんですが、168号線沿線に菅原神社があります。もしかしたらそこの出身か?とも思いました。
 
 ただ、社家(しゃけ)とは代々特定神社の神職世襲してきた家(氏族)のことである(ウィキペディアより)とありますが、さすがにこの神社は小さすぎるような気もします。(当時は大きかったのかもしれませんが…)。
 
 私は大野別符内で最大の神社はどこか?というところに着目しました。当然それは大野別符の荘官鎌倉幕府御家人でもあった大野氏が荘園内の総鎮守として建立した繁根木八幡宮(はねぎはちまんぐう・玉名市繁根木)であろうと思います。あるいは山田日吉神社という可能性もありますが…。
 
 どちらにしろ大野氏と関係が深い神社なのです。とすれば田島氏も大野氏と関係があるに違いないと推理しました。
 
 そこでネットで調べてみると大野別符地頭、紀(大野)氏の項に、大野一族として築地(ついじ)氏・岩崎氏・中村氏・二塚氏・田島氏とあります。
 
 大野一族の田島氏と田島重賢の関係は不明ですが、出身地から考えて私は大野一族のうち繁根木八幡宮あるいは山田日吉神社神職になった一族が田島氏ではなかったかと考えます。
 
 田島氏の所領が古閑にあったのではないでしょうか?多氏族概観でも『大野-肥後国玉名郡繁根木八幡神主家、称紀姓』とありますね♪
 
 繁根木八幡宮は高瀬津のすぐ隣にあるので、もしかしたら菊池氏-高瀬氏の高麗・明交易にも関与していたのかもしれません。大野氏が関与してたのはほぼ推測できますから尚更です。
 
 大友義長は肥後進出の過程で、繁根木八幡宮神職だった田島重賢を見出だし重用したのだと思います。
 
 田島重賢の所領は玉名郡内で75町歩だと伝えられます。しかし本家大野氏が250町歩、高瀬氏も詳細不明ながらそれくらいはあったでしょうから大野別符内(1万石=肥後では500町歩くらいか?)に分割する余裕はなかったはず。
 
 どちらも大友氏の被官になっていましたから、まさかそこから削るというのも難しいでしょう。私はそれとは別に大友義長が新恩として与えた領地だったと考えています。
 
 もちろん菊池義武が肥後に入部し菊池家督守護職を継承すると、その重臣になった重賢はさらに加増されたはずだと睨んでいます。
 
 
 
◇生涯
 
 ソース不明ながら死亡年1549年とだけあります。これは義武の兄である豊後守護大友義鑑が殺された二階崩れの変の前年にあたります。
 
 菊池義武は兄に反逆し、当時肥後南部の豪族相良氏を頼って肥後南部に逼塞していました。もちろん何度も肥後奪還を巡って大友方の城を攻めていたようですからその過程で戦死した可能性が高いですね。
 
 この時代の田島重賢の動静を知るにあたって相良家文書に何通かの書信が残されています。
(鹿子木親俊・田島重賢連署書状写)(田島重賢書状)〔年始挨拶〕などです。
 
 このうち後者の(田島重賢書状)の日付は1545年となっていますから、少なくともこの年までは生存が確認されます。
 
 文書によると重賢は伊勢守を称していたようですね。
 
 
 その他の田島一族ですが、おそらく本家の大野氏から離れ独立していたのだと考えられます。元々国人領主であった鹿子木氏が劣勢の義武を見限り大友義鑑方に付いたのに比べ、新興武士団であった田島一族は義武と最後まで行動を共にするしかなかったと思います。
 
 義武が甥大友義鎮(のちの宗麟)に討たれた1554年、生き残った田島一族も義武終焉の地である豊後竹田で運命を共にしたのでしょう。