お察しの通り鹿子木寂心所縁の遺跡です。大木は戦国時代と思われる古い墓を取り囲むように成長しており、伝説ではこれこそ鹿子木寂心の墓であると伝えています。
飽田・詫摩・玉名・山本4郡・560町歩の領主として初め楠原(くすばる)城(熊本市楠野町城ヶ下、現楠野神社)を本拠としていました。
守護菊池家が衰えると、他の国人と同じく豊後の大友氏に仕えます。時の豊後守護大友義長の信望厚く、その子義武が菊池26代を継ぐと田島重賢とともにその家老としてこれを支えました。
隈本城(現在の熊本市第一高校のあたり)を築いたのはこの寂心であると伝えられます。大永・享禄年間(1521年~1531年)の築城といわれますから菊池義武肥後入り後、本拠とするために彼が縄張りしたのでしょう。
武勇だけでなく文雅を愛する風流人であったとも伝えられ、鹿子木本「源氏物語」【肥後隈本の国人・鹿子木親員が享禄二年(1529)、当時の日本を代表する文化人・三条西実隆から二千疋(二十貫文)で購入した『源氏物語』五十四帖】などでも知られています。
菊池義武は、義長の後を継いだ大友義鑑の傀儡である事が我慢ならず独立を画策します。そして菊池家と大友家は戦争状態に陥りました。
寂心は兄に敵対しようとする義武をしばしば諌めたそうですが野望に燃える義武は聞き入れませんでした。何を言っても無駄だと悟った寂心は義武と距離を置きます。寂心は義武と袂をわけたまま1549年死去しました。
義鑑が二階崩れの変(1550年)で非業の最期を迎えると、義武は大友家の混乱に乗じて肥後一国を制圧します。この時は鹿子木氏(鎮有?)も義武方に付いたようですが、間もなく体勢を立て直した大友軍によって義武は隈本城を追われます。
鹿子木氏が大友義鎮(のちの宗麟)にいつ降伏したかは不明ですが、滅ぼされなかったところを見ると義武をいち早く見限ったようです。
ただ一族のうち義武と最後まで行動を共にした者も多かった(寂心の次男親俊など)らしく、鹿子木氏が再び浮上する事はありませんでした。
寂心さんの樟は公園のようになっており、私は幼少時代から訪れて親しみがあります。ですから鹿子木親員入道寂心の名は昔から知っていました。
いつか彼の記事を書こうと思っていたんですが、今回書くことができて満足です。