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源平合戦11 平家滅亡

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 一の谷の戦いの後、鎌倉の頼朝は後白河法皇に対し日本全国の武士の横領・狼藉停止の命令とその実行を頼朝に委託する旨の院宣を出すよう要求します。これは実質的に頼朝が天下人となることと同義ですが、現実に軍事力で京都を制圧している頼朝の要求を法皇は認めざるを得ませんでした。その分不満は内在し、義経を利用し兄頼朝と対抗させることで巻き返しを図ろうと画策します。
 
 鎌倉政権は着々とその基盤を固めて行きました。1184年10月、公文書の管理、指揮命令、訴訟、財政の実務機関として公文所(後の政所)が新設されます。初代別当(長官)には大江広元が任じられました。また訴訟の審理・頼朝の採決を助ける機関として問注所も設けられます。こちらは三善康信が執事となりました。頼朝の天下を名実ともに実現するには平家を滅ぼす事でした。ただそれで終わりではなく、今度は院政復活を目論む後白河法皇との対決が待っていました。
 
 屋島の戦勝の結果、今回の源氏軍の総大将には九郎判官義経が任じられます。これは水軍の指揮のみで、陸軍は三河守範頼が握っていました。義経は摂津渡辺水軍、熊野水軍に加え伊予の河野水軍を味方に付けます。総兵力840隻。これに対し平家軍は軍船500隻だったと伝えられます。
 
 1185年3月25日運命の海戦は始まりました。負けると後の無い平家方は総大将知盛を中心に必死で戦います。戦場となった壇ノ浦は関門海峡のもっとも狭くなったところで、少数の側が多数の敵を迎え撃つには最適でした。平家はこの海戦に運命を賭けるつもりで、安徳天皇、生母建礼門院(清盛の娘徳子)、二位の尼(清盛の正室時子)など女性たちも最後尾の大船に乗って戦いの帰趨を見守ります。
 
 関門海峡は潮の流れが激しく、これを熟知した平家方が有利に戦いを進めました。義経軍は関門海峡の瀬戸内海側入り口満珠島、干珠島まで追いつめられたと言います。水上の戦いに慣れていない源氏方は苦戦します。業を煮やした義経は、平家方の水手、梶取(漕ぎ手)を弓で射るよう命じました。本来、海戦の場合非戦闘員の水手(かこ)は殺さないのが暗黙のルールでしたが、背に腹は代えられなかったのでしょう。軍記物では英雄的な決断だと持て囃されますが、多くの鎌倉武士はこの事で義経を見限ったとも言われます。
 
 水手を殺されて軍船のコントロールを失った平家方は、潮の流れが逆に変わり東から西に移った事で崩れ始めました。敗北を悟った平家方では、まず安徳天皇を抱いた二位の尼が入水。次いで女官たちが次々と身を投げます。三種の神器もこの時水没しました。安徳天皇と女官たちの最期を見届けた総大将知盛は、乳兄弟平家長と自害、享年34歳でした。教盛、経盛、資盛、教経ら平家の名ある武将たちも後に続きます。平家の棟梁宗盛も水に飛び込みますが命を惜しんで浮かび上がり泳いでいたところを捕えられました。安徳天皇の生母建礼門院は、入水するも着物が敵兵の薙刀に引っ掛かり生け捕られます。
 
 このほか、平家方で生き残ったのは二位の尼の弟平大納言時忠らごく少数でした。栄華を誇った平家はここに滅亡したのです。しかし全滅したわけではなく、日本各地に平家落人伝説が残ります。戦後、義経建礼門院や宗盛ら捕虜を連れ京都に戻りました。範頼はなおも現地にとどまり戦後処理を担当します。
 
 
 
 京に帰還した義経は、都の人々に持て囃され凱旋将軍として得意の絶頂でした。後白河法皇は煽てに煽て、義経と彼に従っていた御家人たちを任官させます。さらに義経は、時忠の娘を娶った事が頼朝に知られ激怒されます。政治力も気配りもない義経は、何故兄頼朝が怒っているか理解できなかったのでしょう。頼朝の許可を得ず勝手に任官する事は、鎌倉政権の統制に関わる大問題でした。恩賞を与えるのはあくまで頼朝。朝廷の官位を与えるにしても頼朝の推薦が無ければ許されません。
 
 それを弟の義経自身が破ったのです。頼朝は怒りというより余りの弟の無能ぶりに目の前が真っ暗になったはずです。頼朝は、愚かな義経法皇に利用され自分に牙を向く事を恐れます。そして現実的にそうなりつつありました。
 
 
 次回、腰越状事件、義経の謀反、義経の奥州逃亡について語りましょう。