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源平合戦14 幕府成る日(終章)

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 奥州合戦によって1180年以仁王の乱から始まる治承・寿永の乱所謂源平合戦は終わります。この間、栄華を誇った平家は滅亡し、源氏側でも源三位頼政木曽義仲源義経が亡くなりました。鎌倉にあって着々と政権基盤を固めた頼朝が最終的勝利者となったのです。

 いやもう一人いました。後白河法皇です。法皇もまた激動の戦乱の世を渡りきり、日本一の大天狗と称された権謀の才で生き残りました。1190年10月、頼朝は大軍を従え上洛の途につきます。法皇はじめ都の貴族たちは賀茂の河原に車を出し、東国の覇者を眺めたそうです。以後一ヶ月頼朝は京に滞在します。後白河法皇後鳥羽天皇に拝謁し、特に法皇とは余人を交えず長時間語りあったと伝えられます。

 頼朝の目的は、内乱鎮圧のために朝廷から与えられていた日本国総追捕使、総地頭の権限の永続化でした。そのために、今では単なる名誉職となっていた征夷大将軍職を望みます。将軍となり幕府を開く事で、日本支配の正統化を図ったのです。幕府は柳営とも呼び、本来は将軍が任地で設けた陣地あるいは出先機関のことです。すでに実質的に鎌倉政権は天下の権を握っていましたから、幕府という名分を欲しました。

 法皇側も頼朝の狙いは十分承知しています。11月9日正二位権大納言・右近衛大将という武家では最高の官位を与えたものの、征夷大将軍職任官だけは頑なに拒否しました。頼朝は12月3日、両官を辞任します。どちらも朝廷に出仕しなければならない役職で、鎌倉に帰れなくなるのが理由でした。頼朝は盟友九条兼実と面会し善後策を協議します。結論としては法皇が生きている間は将軍職就任は難しいだろうという事になりました。

 12月14日、日本国総追捕使、総地頭の延長、恒久化で頼朝は一応満足し鎌倉に帰還します。後白河法皇最後の抵抗でした。1192年3月、その後白河法皇が俄かに病を発し崩御しました。享年66歳。これで障害は無くなり、関白九条兼実の尽力で頼朝は念願の征夷大将軍職を得ます。鎌倉幕府成立の時期がいつか議論になる所ですが、幕府という名前の由来を考えればやはり1192年が妥当でしょう。

 1193年5月、得意の絶頂であった頼朝は、富士の裾野に御家人を集め大規模な巻狩りを挙行しました。実はこの時曽我兄弟の仇打ち事件が起こるのですが、真相は頼朝暗殺計画ではなかったかとも噂されます。この混乱は尾を引き、頼朝の弟三河守範頼ですら謀反の疑いを受け伊豆へ流罪となりました。範頼はさらに伊豆修善寺に幽閉され誅殺されます。無実だったと言われますが、猜疑心の強い頼朝は自分のライバルになり得る源氏一族は兄弟であっても生かすつもりはなかったのでしょう。安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏の有力者も頼朝によって粛清されます。独裁者の晩年はこのように暗いものになりがちですが、頼朝としてはせっかく開いた鎌倉幕府を盤石にしたいという強い思いがあったことも確かでした。

 1195年2月、頼朝は東大寺再建供養出席を名目に再び上洛します。その真意は後鳥羽天皇の妃に長女大姫を入れ外戚になることでした。ただこれは丹後局や院近臣土御門通親の妨害に会い失敗します。すでに実質的に天下人であった頼朝が何故外戚になろうと考えたのでしょうか?ここは理解に苦しむ点です。頼朝の盟友九条兼実も自分の娘(中宮任子)を入内させていましたから、両者の関係は冷え込みました。そもそも大姫入内問題は中宮任子が皇子を生まなかった事から起こります。

 鎌倉幕府の後ろ盾を失った九条兼実は、廷臣から離反され1196年11月関白の地位を追われました。一方、頼朝ですが盟友兼実を裏切ってまでごり押ししようとした大姫入内は1197年7月彼女の病死によって失敗に終わります。思えば大姫は、許婚木曽義高殺害に始まり父親の野望の犠牲になった生涯でした。1198年1月、後鳥羽天皇は頼朝の意向を無視して土御門通親の娘が生んだ土御門天皇に譲位します。結局一番得をしたのは通親でした。

 危機感を抱いた頼朝は、九条兼実に書状を送り再度の提携と次女三幡姫の入内を画策しますが後の祭りとなります。九条兼実とともに有力な頼朝党だった従二位権中納言一条能保(頼朝の同母妹坊門姫の婿)も1197年10月病死するなど頼朝の朝廷に与える影響力は減少しつつありました。これが三代将軍実朝暗殺後起こった承久の乱の遠因となります。

 征夷大将軍職を得て幕府を開いた頼朝は、これで人生の目的を果たしたのでしょう。以後は失敗続きでした。1198年12月27日、落馬が原因で頼朝は意識を失います。そのまま回復せず翌1199年1月13日波乱の生涯を閉じました。亨年53歳。




 頼朝の開いた鎌倉幕府は、頼家、実朝と続きますが源氏の嫡流は三代で途絶えます。その後、正室政子の実家である執権北条氏が台頭、幕府を主宰しました。鎌倉幕府は、日本で初めての武家政権です。それまでの摂関政治院政を終わらせ武士の世を開いた頼朝の功績は図り知れません。頼朝は、まさに古代政治に止めを刺し中世という時代を幕開けさせた不世出の英雄と言えるでしょう。



                                (完)