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日本人を守るための戦い  根本博と駐蒙軍

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 大日本帝国陸軍中将根本博、戦史に詳しい方なら名前くらいは聞いたことがあるでしょう。第21軍参謀長、南支方面軍参謀長、第24師団長、第3軍司令官を経て1944年11月より駐蒙軍司令官を拝命、1945年8月19日からは北支方面軍司令官を兼任し復員事業に尽力。戦後は台湾に渡り中華民国軍の軍事顧問に就任、台湾名林保源と名乗り中将、金門島の戦いでは湯恩伯の第5軍管区顧問として実質的に金門島の戦いを指導。

 湯からは顧問閣下として礼遇を受け、厦門放棄と金門島の要塞化を進言、日本軍仕込みの重厚な防御陣地を構築し毛沢東人民解放軍を見事撃退、軍人として有終の美を飾るが、当時の日本は台湾渡航禁止で台湾側も極秘扱いだったため知る人ぞ知るという生涯を送った人です。

 今回紹介するのは、駐蒙軍時代の根本。終戦ソ連軍の侵攻を受け在留邦人4万人を助けるため中央の方針に逆らって独断で戦闘を継続、無事在留邦人を救い出しました。

 駐蒙軍は1937年12月駐蒙兵団として創設、1938年7月軍に改編され北支方面軍隷下となります。司令部は河北省と内蒙古の境にある張家口。当初は独立混成第2旅団しか実働部隊を持たない、いわば後方警備の軍でした。

 後方部隊のはずの駐蒙軍が矢面に立たされたのは、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し1945年8月9日参戦してきたからです。スターリンは米英との密約で大軍をシベリアに集結、宣戦布告と同時に満洲に雪崩れ込みました。内蒙古も例外ではなく、ソ連の傀儡だったモンゴル人民共和国を通って8月14日にはソ連軍が外長城まで達します。

 守る駐蒙軍は独立混成第2旅団の歩兵6個大隊、野砲兵1個大隊、工兵1個中隊のみが当面の兵力でした。これでは危ないという事で支那派遣軍第13軍から第118師団が抽出されて駐蒙軍隷下に組み入れられますが、未だ北上中でした。

 8月15日終戦。在留邦人は張家口に集まります。大本営や上級部隊の支那派遣軍司令部は、根本に対し即座の武装解除を命じました。ですがここで武装解除に応じれば、軍人はすべてシベリアに連行され、残された邦人は略奪暴行強姦に遭い生きて帰ることもできなかったでしょう。満洲各地で繰り広げられた悲劇が内蒙古でも繰り返されるのです。

 根本は悩みぬきます。しかし同胞である在留邦人を守るため、中央の命令に逆らって戦闘を継続し邦人を比較的安全な北京まで撤退させる決断をします。当時鉄道だけでは輸送は難しく、ソ連軍の爆撃も懸念されたため、あらゆる車両を総動員し、歩けるものは徒歩移動も含めて4万人の在留邦人が全員避難するまで8月22日から23日くらいまでかかる見通しでした。

 おそらく根本をはじめ駐蒙軍の兵士たちは全滅も覚悟していたでしょう。8月14日長城の北20㎞の張北に停止したソ連軍は8月17日、停戦命令を無視し航空機による空爆を開始しました。18日夜地上軍も動き出し長城線の南側、山岳地帯に構築された独立混成第2旅団の陣地に攻撃してきます。

 これでは停戦交渉どころではありません。日本軍は防衛戦闘に徹しこちらからは攻撃を控えます。そうして軍使を派遣しソ連軍と停戦交渉に入ろうとしました。ところがソ連軍はその軍使に銃撃するという暴挙を行います。まさに鬼畜の所業ですが、これが連中の正体なんでしょう。国際条約を平気で踏みにじる国ですからね。

 その間南京の支那派遣軍からは「直ちに武装解除して降伏せよ」と現実を無視した的外れの命令が下されます。根本も苦しかったでしょう。しかしすでに死を覚悟していた根本は、命令を無視し戦闘を続けます。ソ連軍の攻撃が本格化したため、この時点でもまだ2万人の邦人が逃げ遅れていました。

 頑強に抵抗する駐蒙軍に攻めあぐねたソ連軍は、20日には停戦の意思を見せ始めます。しかしここで停戦しては元も子もありません。粘り強く交渉しながら、根本は邦人脱出のタイミングを計りました。ソ連軍は「22日までに全面降伏せよ」と要求します。

 根本は隷下部隊を徐々に引き上げさせ、邦人を守りながら後退する道を選びました。ソ連軍も根本の遅滞戦術に気付き、21日砲撃を加え総攻撃を開始します。独立混成第2旅団は巧みに構築された防御陣地を有効に使い、反撃しました。4時間の戦闘で予想外の損害に驚いたソ連軍は立て直しのため長城線の北に一時撤退を余儀なくされます。

 駐蒙軍の必死の防戦で、ようやく最後の邦人が脱出に成功。根本は22日日没をもって全正面から撤退を命令。機甲部隊が主力の敵の追撃を恐れますが、損害に驚いたソ連軍の追撃はありませんでした。8月27日、駐蒙軍は内長城の青龍橋に到達します。

 その後根本は北京天津で抑留生活を送りますが、在留邦人4万は無事に帰還でき、満洲地区で起こったような残留孤児問題は内蒙古では生じませんでした。まさに奇跡の生還です。


 処罰と死を覚悟した根本の決断が、4万人の日本人を救ったのです。かくも高潔な軍人が居たという事を知ってほしくて記事にしました。