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戦国大名駿河今川氏Ⅶ  今川義元の登場

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                          ※   今川義元木像


 今川氏親家督を相続し嫡男氏輝を次の後継者と定めた後、氏輝の弟たちは嫡流、庶流関係なく皆仏門に入れられます。これは幾度も繰り返された家督相続をめぐる内乱を避けるためでした。氏輝の同母弟芳菊丸もわずか4歳で富士郡瀬古の善得寺に預けられます。出家後の名前は栴岳承芳(せんがくしょうほう)。彼の教育係に選ばれたのが、今川家の重臣庵原(いはら)氏出身の太原崇孚(たいげんそうふ【すうふ】)雪斎でした。

 二人は京都五山に上り勉学に励みます。このまま進めば、僧侶として一生を終るはずでしたが、兄氏輝がわずか24歳で急死したため、母寿桂尼から急きょ呼び戻されます。氏輝は、将来病弱ではありましたが、その死があまりにも急だったため暗殺説、自殺説もあります。

 氏親の正室中御門氏(落飾して寿桂尼)には三人の男子があり、長男が氏輝、次男が彦五郎、三男が栴岳承芳でした。実は氏輝急死と前後して第二継承者の彦五郎も亡くなっています。この辺りの不自然さが暗殺説が囁かれる所以でしょう。栴岳承芳には異母兄玄広恵探があり、この二人が有力な家督候補でした。

 栴岳承芳には雪斎の実家庵原氏や一族の瀬名氏など多くの重臣が味方します。一方玄広恵探の母が福島(くしま)氏出身だったため、武断派福島正成(くしままさしげ)を中心とした福島一族は恵探を支持しました。福島氏は遠江国土方(高天神)城主。ただこれもはっきりせず、北条氏家臣説もあります。

 最初に動いたのは栴岳承芳派でした。早速環俗させると足利12代将軍義晴に使者を送り偏諱を賜り、義元と名乗らせます。焦った恵探派は天文五年(1536年)5月、久能山で挙兵しました。恵探派は駿府の守護館を襲撃しますが失敗、撤退し方ノ上城(焼津市)、花倉城(葉梨城、藤枝市)を拠点として抵抗しました。この戦いを城の名を取って花倉の乱と呼びます。

 ところが政略的に優位だった義元派が小田原北条氏の援軍を加えて攻撃、花倉城を落とし、逃れた玄広恵探瀬戸谷普門寺で自害しました。恵探派の主力である福島一族は追放されます。有名な北条氏の重臣北条綱成は、小田原に亡命した福島正成の遺児だと伝えられます。

 こうして、家督(第9代)を相続した義元(1519年~1560年)ですが、状況は厳しさを増しました。氏親の晩年から氏輝の時代にかけて、福島正成が主導して甲斐国に侵入を繰り返し武田家との関係が悪化していました。小田原北条氏もあまりにも大きくなりすぎたため、今川氏との関係がぎくしゃくします。

 義元は、軍師となった雪斎長老の意見を容れまず天文六年(1537年)甲斐守護武田信虎の娘を正室に迎え和睦。これは武田氏と対立していた北条氏綱(伊勢宗瑞の子)の怒りを買い北条軍の侵攻を招きました。その後甲斐では信虎の長男晴信が父を追放して当主となり、北条家でも氏綱が没し息子氏康が継ぎます。

 雪斎は、天文二十三年(1554年)駿河国善徳寺に氏康、晴信を招き義元と両者が互いに婚姻関係を結ぶ事で三国同盟を締結させます。これが善徳寺の会盟です。北条氏は武蔵国へ進出を図り、晴信も信濃へ、義元は三河から尾張と互いに背後を気にする事なく進出できるようになりました。

 三河に侵攻する今川軍を指揮したのは雪斎です。庵原氏出身とはいえここまで軍才があるのですから驚きます。尾張織田信秀と何度も戦い一進一退の攻防を繰り返しました。そんな中、西三河松平広忠(家康の父)の帰順を受けます。嫡子竹千代を人質にとり、天文十八年(1548年)広忠が死去すると、重臣朝比奈泰能(掛川城主)を送り込み、事実上の今川領国にしてしまいました。今川氏の三河支配は過酷を極め、松平党は常に先陣を命じられ消耗していきます。

 義元生涯のライバル織田信秀が天文二十年(1551年)死去すると、最大のチャンスが巡ってきました。善徳寺の会盟は、義元上洛の後顧の憂いをなくすという意味もあったのです。当時の今川領国は駿河遠江三河尾張の一部を合わせて80万石強。動員兵力二万五千。永禄三年(1560年)、満を持して義元は立ちます。二万五千全軍を率いて尾張に侵入しました。この時の目的を上洛だとする説、あるいは尾張の完全平定が主目的だとする説がありはっきりしまっせんが、どちらにしろ当面の敵は信秀の後を継いだ信長でした。

 信長に代替わりして、多くの国人が今川方に寝返ります。当時の信長の動員兵力は二千までに激減していました。通常なら籠城戦です。ところが信長は出撃を選びます。この時今川軍には軍師雪斎(1555年死去)の姿はなく、自ら戦を指揮した経験の少ない義元は油断していたのだと思います。

 5月19日、信長の奇襲によって桶狭間(田楽狭間)の合戦は幕を開けました。この時義元の本陣には五千の旗本がいたとされますが、移動中を横撃され対応の暇なく総大将義元は織田勢に討ちとられてしまいます。義元享年41歳。

 油断と言えば油断、運が無かったとも言えます。ともかく義元の死で今川家は瓦解の道を辿りました。逆に織田信長にとっては飛躍の始まりです。信長の勝利は情報の勝利だったとも言えます。細作を放ち今川軍の動きを完璧に把握していたからできた芸当でした。

 次回最終回、今川氏の滅亡を描きます。