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北近江浅井三代記Ⅰ  浅井氏の登場

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 浅井氏と言えば、織田信長の妹お市の婿浅井長政が有名です。最初は信長の協力者として、次に越前攻めをきっかけに信長の敵対者として苦しめ、最後は織田の大軍に本拠小谷城を落とされ切腹しました。信長の怒りは凄まじく、長政とその父久政、越前の朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、正月の宴席の見世物にしたというゾッとする話もあります。

 では浅井氏は、どのようにして近江で台頭し織田信長と対決できるまでに力をつけたのでしょうか?私は浅井氏の歴史に深い興味を抱きました。本シリーズでは、浅井氏初代亮政(すけまさ)の台頭から久政時代の成長、長政の滅亡までを描こうと思います。シリーズを通しての主要参考文献として『浅井氏三代』(宮島敬一著、吉川弘文館)をあげておきます。その他、中公文庫日本の歴史など戦国関連本を参照しています。

 浅井氏の歴史を書き始める前に、当時の近江(滋賀県)の情勢から始めます。近江国太閤検地で78万石、陸奥や出羽を除くと日本一豊かな国でした。ちなみに二位は武蔵で67万石。室町時代近江の守護は佐々木氏でしたが、あまりにも大国だったため南北に分割されます。南近江は近江源氏佐々木氏の嫡流六角氏(佐々木信綱の子泰綱が初代)が守護となりました。北近江はこれも佐々木一族の京極氏(泰綱の弟氏信が家祖)が守護に任ぜられます。

 京極氏で一番有名なのは佐々木道誉(氏信の曾孫)でしょう。道誉は足利尊氏の幕府建設を助け三管領四職の一家として山名・一色・赤松氏と共に侍所所司を歴任する重要な家となりました。ただ、京極氏は守護領国には恵まれず本拠の北近江以外は出雲18万石だけがまともな国で、それ以外はたった五千石の島国隠岐、四万石しかない山国飛騨でした。しかも、出雲は一族で守護代尼子氏に乗っ取られ、飛騨は国司姉小路氏次いで守護代三木氏の勢力が強すぎ、一度もまともな勢力圏を築けないまま終わります。

 北近江の本国(伊香郡浅井郡坂田郡中心。高島郡と滋賀郡に関しては支配関係が微妙)はわずか20万石しかなく、六角氏の南近江50万石と比べると大きな差をつけられていました。これは足利尊氏の巧妙な守護大名統制策で、佐々木氏嫡流の六角氏には実利を与え、京極氏には名誉を与えたという事でしょう。そのため、六角氏が戦国時代に突入しても順調に戦国大名に発展したのに比べ、京極氏は領国が全国に分散し統一した勢力に纏められず、本国北近江の支配さえ怪しくなって行きました。

 代わって台頭したのが浅井氏ですが、では浅井氏が守護代だったかというとこれも違いどうも国人一揆(この場合は反乱ではなく国人【地侍】の盟約、あるいは盟約した集団)の代表として力をつけた一族だったようです。

 最近、浅井氏の読みを「あざい」氏と濁るのが主流になってきていますが、『浅井氏三代』によるとやはり「あさい」が正しいそうです。浅井を「あざい」と読むのは江戸期以降で、それまでは「あさい」と呼んでいました。そうなると尼子を「あまご」と読むのも護良親王を「もりよししんのう」と読むのも怪しくなってきますね。ちなみに良を「なが」と読むのは宮中用語だそうで、護良親王後醍醐天皇の皇子なので「もりなが」と読むのが正しいという話を読んだ記憶があります。戦前は教養のある学者が多かったので読みで間違う事はなかったそうですが、戦後教育にどっぷりつかった学者が奇を衒うようになり従来の読み方を改めて行ったそうですから、我々一般人としては許せない話ですね。穿った見方をすると戦後左翼学者が日本の伝統を破壊しようと意図して読み方を変えたとも言えます。

 浅井氏の出自に関しては色々な疑義があるそうです。通常武士は土地の名前を取って苗字とするそうですが、浅井氏は郡の名前を取っています。郡名を名乗るのは異様な事だそうで、『浅井氏三代』では浅井郡に朝日郷というところがあり、当初浅井氏は朝日氏と名乗っていたのではないかと考察しています。そうなると「あさひ」→「あさい」となって郡の名前を取って浅井氏と名乗ったという方向が自然に思えますね。となるとやはり読みは「あさい」氏が正しいのでしょう。

 浅井氏は三条公綱落胤説、物部守屋後胤説など様々な出自が言われますが、三条公綱落胤説は時代的・土地的にあり得ず物部氏後胤説は確認しようがないそうです。結論としてはどこの馬の骨か分からない一族で、戦国の風雲に乗じて台頭したという事でしょう。

 次回は、浅井氏初代亮政の台頭を描きます。