鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#世界史

世界史英雄列伝(44) シヴァージー 反ムガールの英雄(前編)

故陳舜臣さんの小説にインド三国志という作品があります。アウラングゼーブ帝のムガール帝国、シヴァージーを中心とするマラーター同盟、インド亜大陸に進出を企むイギリス勢力との三つ巴の戦いを描いた小説ですが、残念ながら未完に終わっており続きが気に…

ヴィンランド

11世紀のヴァイキングの生き様を描いた幸村誠の漫画『ヴィンランド・サガ』。その題名にも使われた北米大陸にあったとされる伝説の地がヴィンランドです。 名前の由来の「ヴィン」は「ブドウ」あるいは「草原」という意味だそうです。ノルマン人やヴァイキン…

ISとイラク軍の攻防が続くモスルの地図を見て驚愕しました

【イラク】逃げる市民に紛れ自爆、12人死亡=旧市街「半分を解放」-イラク・モスル ISの事実上の首都とも言えるイラク北部の町モスル。町は包囲され、自暴自棄になったIS戦闘員はモスル市民を人間の盾にして激しく抵抗しているとか。 ふと興味を覚えてモスル…

隋唐帝国13  唐の滅亡(終章)

最盛期には支那本土はもとより、朝鮮半島北部、満洲(高句麗の故地)、モンゴル高原、西域にまで勢力を広げ当時の世界帝国だった唐。もちろん支那本土以外は、領土というより唐を盟主とした緩やかな統合ではありましたが、安史の乱勃発により唐は海外に目を…

隋唐帝国12  安史の乱

唐の政治体制と言えば律令格式です。土地制度としては均田制・公地公民。税制は租庸調。軍事は府兵制。実は均田制というのは北魏から始まったもので、土地を国家の所有とし民衆にそれを貸し出し、対価として税を徴収するというシステムでした。これらは遊牧…

隋唐帝国11  武韋の禍(ぶいのか)

唐三代皇帝高宗(在位649年~683年)といえば、663年には白村江の戦いで日本・百済連合軍を破り668年には新羅と同盟し懸案の高句麗を滅ぼすなど対外的には唐の国威を大きく上げた皇帝です。ところが実際の政策は小利口な官僚や有能な軍人が成した成果で、高…

隋唐帝国Ⅹ  貞観の治

皇太子李建成は決して無能な人物ではありませんでした。623年には群雄の一人劉黒闥(りゅうこくたつ)を河北館陶(現在の河北省邯鄲市近く)で撃破し滅ぼすなど軍功もあげています。ところが弟李世民があまりに有能すぎたため功を上げても霞んだのは事実でし…

隋唐帝国Ⅸ  虎牢関の戦い

支那大陸の地形に詳しい方ならご存知だと思いますが、洛陽盆地は中原のやや西に位置し、北は黄河、南は伏牛山脈の支峰が黄河まで迫る狭い盆地でした。西には函谷関、東には虎牢関(河南省滎陽市)があり盆地に入る者を遮断します。もっとも西の函谷関は漢代…

隋唐帝国Ⅷ  李淵挙兵

618年、煬帝が江都(楊州)で臣下に背かれ殺されて滅亡した隋。すでにその前から、各地に群雄が割拠し無政府状態に陥ります。その中の一人に李淵(556年~635年)という人物がいました。 李淵の祖父李虎は、西魏・宇文泰が設けた八柱国の一人。使持節・太尉・…

隋唐帝国Ⅶ  隋の煬帝(ようだい)

通常、支那王朝では皇帝が崩御すると次の皇帝が前皇帝の生前の功績をふまえて諡号(しごう)を贈ります。文帝とか武帝、あるいは宣帝などという名前はすべてこの諡号です。一方、高祖とか高宗、太祖、太宗などというのは廟号といってその皇帝が皇統の中でど…

隋唐帝国Ⅵ  楊堅の台頭

北魏最後の皇帝孝武帝を長安に迎えた宇文泰。宇文氏はもともと匈奴族出身でした。匈奴族宇文部は後漢末に鮮卑族部族連合に加わり鮮卑化していきます。孝武帝は534年宇文泰を大都督・雍州刺史兼尚書令、536年には都督中外諸軍事・大行台に任じ安定公に封じま…

隋唐帝国Ⅴ  北魏の分裂と北朝の盛衰

北魏第6代孝文帝が洛陽に遷都する前、首都平城(山西省大同市)を北方の柔然など剽悍な遊牧民から守るため鎮と呼ばれる軍管区を設置しました。西から沃野鎮、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、懐荒鎮、禦夷鎮の七鎮です。鎮将には北魏の皇族や拓跋部の有力者…

隋唐帝国Ⅳ  北魏の華北統一

遊牧国家が農耕地帯を支配しても長続きしないのは、統治するための官僚機構、税制法制の整備、民生の安定などを作り上げる事ができないからです。軍事力だけでは国を保つことはできず、国民から税を徴収しそれをインフラ投資や民生安定に投資する農耕民族国…

隋唐帝国Ⅲ  宋の武帝と南朝の興亡

謝安が東晋朝廷を主導する前、桓温(312年~373年)という実力者がいました。桓温は大司馬・都督中外諸軍事という軍政と軍令を司る国軍の最高司令官に就任し東晋朝廷を支配します。その権力は絶大で皇帝を挿げ替えるほどでした。彼が擁立した簡文帝が臨終に…

隋唐帝国Ⅱ  東晋の成立と淝水(ひすい)の戦い

晋の皇族の一人に司馬叡という人物がいました。三国志で有名な司馬懿から数えると4代目。司馬懿の4男瑯邪(ろうや)王司馬伷の孫です。司馬叡の家系は三国志の時代を象徴するような家系で、彼の祖母は諸葛誕(亮の従兄弟)の娘。母は魏の宿将夏侯淵の孫。彼…

隋唐帝国Ⅰ  晋の滅亡

日本でもなじみの深い三国時代。魏呉蜀と分かれた大陸を統一したのは魏の権臣司馬炎でした。彼は諸葛亮のライバル司馬懿の孫にあたります。司馬炎は自分が乗っ取った魏が帝室の親族を圧迫して力を弱めた反省から、一族を各地の王に封じ帝室の藩屏とすること…

大オスマン帝国Ⅹ  トルコ革命と帝国滅亡(終章)

19世紀末から20世紀初頭にかけてバルカン半島の西側からはオーストリア=ハンガリー二重帝国が、バルカン半島東側とコーカサス地方からはロシアがオスマン帝国の領土を窺います。国内はフランス革命の影響を受け支配下の諸民族にナショナリズムの嵐が吹き荒…

大オスマン帝国Ⅸ  滅亡への序曲

ここに一つの伝説を述べましょう。カリブ海、ドミニカの南にマルティニーク島という島があります。フランスの海外県の一つで面積1128平方キロ、2011年現在で人口40万人。 18世紀末ごろ、この島に姉妹のように育った下級貴族の娘がいました。従姉妹同士で年も…

大オスマン帝国Ⅷ  第2次ウィーン包囲

レパントの敗戦はオスマン帝国の屋台骨を揺るがすほどではありませんでしたが、少なくとも拡大路線が頓挫し何かが変わり始めるきっかけにはなりました。スレイマン大帝以後凡庸なスルタンしか出ず、宮廷は官僚や軍人の権力闘争の場となります。なかには第16…

大オスマン帝国Ⅶ  レパントの海戦

前の記事でガレー船という言葉が出ています。懐かしの光栄シミュレーションゲーム『大航海時代』を遊んだ事のある方ならご存知だと思いますが、知らない方も多いと思うので一応説明します。 ガレー船というのは地中海やバルト海など風向きが安定しない内海で…

大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(後編)

『太陽の没しない国』スペイン・ハプスブルク帝国の主カール5世(在位1519年~1556年)。ヨーロッパ随一の経済中心地ネーデルラントを領有し、新大陸からもたらされる莫大な金銀によっておそらく当時世界一富裕だったと思われます。結果論ですが、スペインが…

大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(前編)

オスマン帝国第10代スルタン、スレイマン1世(在位1520年~1566年)。大帝と尊称されオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。 スレイマンの父セリム1世が1520年ロードス島遠征準備中に亡くなった時、彼はイズミルにほど近いマニサの知事でした。急報を受け…

大オスマン帝国Ⅴ  冷酷者セリム1世

コンスタンティノープルを征服し世界帝国の礎を築いたメフメト2世。後を継いだバヤジット2世(在位1481年~1512年)の治世は拡大した帝国の内面を固める時代でした。というのもスルタン位継承争いをしたバヤジットの弟ジェムが聖ヨハネ騎士団、ヴェネチア、…

大オスマン帝国Ⅳ  征服者メフメト2世

話はアンゴラの戦い直後まで遡ります。スルタン・バヤジット1世が捕虜になりどう足掻いても挽回不可能だと悟ったイェニチェリ軍団は驚くべき行動に出ました。王子の一人と大宰相を擁して戦場を離脱したのです。これはスルタン個人ではなくオスマン朝そのもの…

大オスマン帝国Ⅲ  雷光バヤジット1世とアンゴラの戦い

1389年コソボの戦いで勝利するも戦場に倒れた父ムラト1世に代わって即位したバヤジット1世(在位1389年~1402年)。ただ彼の即位はスルタン位継承の障害になる兄弟たちを殺すという血塗られたものでした。以後、即位時に兄弟を殺す事は先例になります。 即位…

大オスマン帝国Ⅱ  オルハンとムラト1世

オスマン君侯国が最初に都と定めたブルサはどのような都市だったでしょうか?2015年の人口統計では、イスタンブール(1486万)、アンカラ(532万)、イズミル(416万)に次ぐ第4位283万の人口を誇ります。14世紀当時の人口は分かりませんが、ある程度の人口…

大オスマン帝国Ⅰ  オスマン家のルーツ

現在トルコといえばアナトリア半島(小アジア)とバルカン半島の一部(トラキア地方)を領土とする国を指します。ところがトルコ民族としては最も西に位置し、ほとんどのトルコ民族はトルキスタンと呼ばれる地域に住みました。その地域は広大で、国でいえば…

古代の兵站話  その2

カデシュの戦い当時2万のエジプト軍が1日にどのくらい物資を消費したか考えてみました。第2次大戦当時、歩兵師団(1.5万で計算)の1日物資消費量は最低200tと言われます。古代には、弾薬は使わないので食料が大半だったとは思いますが、消耗品である矢の…

カデシュの戦いと古代の兵站

エジプトを衛星写真で見ると、広大な砂漠の真ん中に一本の緑の線がある事が分かります。緑の線は地中海沿岸になると三角(デルタ)に広がります。これが総延長6650km、流域面積287万平方キロを誇る世界一の大河ナイル河です。 ナイル河の源流エチオピア高原…

人類文明の発祥Ⅳ  戦車と馬

馬という動物を人類が家畜として飼い始めたのはいつ頃でしょうか?様々な説がありますが、その中でも有力な説は紀元前4000年頃だろうとされます。ウクライナ地方で発見された遺跡で家畜化された馬の痕跡が見つかったそうです。最初、人類は馬を食肉用として…