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隋唐帝国13  唐の滅亡(終章)

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 最盛期には支那本土はもとより、朝鮮半島北部、満洲高句麗の故地)、モンゴル高原、西域にまで勢力を広げ当時の世界帝国だった唐。もちろん支那本土以外は、領土というより唐を盟主とした緩やかな統合ではありましたが、安史の乱勃発により唐は海外に目を配る余裕がなくなりました。

 751年と言えば玄宗皇帝の時代で安史の乱勃発の直前ですが、遠く中央アジアキルギス共和国にあるタラス河畔で重要な戦いが起こります。唐軍は安史の乱でも出てきた高句麗系の将軍高仙芝率いる6万。相手は当時日の出の勢いだったイスラム帝国の将軍イブン・サーリフ。イスラム軍は10万とも20万だったとも言われます。タラス河畔の戦いは唐軍の大敗に終わり、この結果唐軍の捕虜の中に製紙技術者がいたことから中東や欧州に製紙法が伝わるきっかけとなりました。

 安史の乱で弱体化がはっきりしてきた唐を見て、周辺民族はこれを侮るようになります。それまで天可汗として崇めてきたのが、実態を知りしばしば侵入を繰り返しました。特に安史の乱平定に功績のあった北方遊牧民族ウイグルは、恩賞の不満もあり毎年のように侵入、略奪を繰り返します。中央政府は何もできず、自然節度使の力が増大し軍閥化していきました。

 律令体制は国家体制がしっかりしていなくては運営できず統治能力が弱体化、再び豪族が台頭し大土地所有をはじめます。このあたり日本の律令体制崩壊、荘園化の流れとそっくりでした。軍閥化した節度使、大豪族、富豪と一般庶民の貧富の差はますます拡大します。豪族の大荘園は国家の介入を拒否し税金も収めなくなりました。国家財政が急速に悪化した唐は、塩や鉄など生活必需品の専売制を強化し乏しい税収を補おうとします。

 こうなるとますます庶民の生活は苦しくなります。政府か税金を加算し値段を管理している高い塩など買えなくなり、闇商人が横行しました。そんな密売人の一人に山東出身の黄巣という人物が登場します。874年、同じ闇商人王仙之が河北で挙兵したのに呼応し山東で蜂起した黄巣も反乱に加わりました。唐政府が闇商人を弾圧し、彼らも生きられなくなっていたのです。黄巣は反乱の中で頭角を現し、指導的立場となりました。

 これを黄巣の乱(875年~884年)と呼びます。当時の庶民は重税にあえぎ生きるか死ぬかという状況に追い詰められていましたから、反乱軍はたちまち数万に膨れ上がります。唐の中央政府は愚かにも反乱軍の首謀者を懐柔し官職でも与えれば収まると工作しますが、現実を認識できない甘すぎる対応でした。王仙之は唐朝の懐柔に乗り反乱軍は分裂します。王仙之は結局唐に騙され敗死しました。黄巣達反乱軍主力は、豊かな物資のある江南に転戦し12万という大軍に膨れ上がります。880年には唐王朝の首都長安すら陥落しました。

 第21代僖宗皇帝は、安史の乱の時のように蜀に逃亡を余儀なくされます。黄巣長安で帝位に就き国号を斉としました。そして安史の乱のときと同じく、寄せ集めの農民反乱で国家を運営できる人材がいなかったため乱脈な政治を行い内紛により分裂します。

 黄巣軍の幹部の一人朱温は、儒家の家に生まれある程度学問があったためでたらめな黄巣の政治を見て見限りました。ちょうど唐朝から帰順の誘いがあったことから部下と自分の軍を率いて寝返ります。同じ頃山西にいた突厥沙陀部の首長李克用にも唐朝は莫大な贈り物を贈り背後より黄巣軍を衝くよう要請しました。

 反乱鎮圧に異民族の力を借りればその後どうなるか安史の乱の時のウイグルで懲りているはずですが、背に腹は代えられなかったのでしょう。李克用は雁門節度使に任じられ、朱温は僖宗から『全忠』の名前を貰い官軍となります。統治能力を欠いた黄巣は、唐軍と剽悍な遊牧民沙陀族の騎兵、唐に帰順した朱全忠の連合軍に攻められ長安から叩き出されました。

 884年5月、河南省中牟県にある王満渡の決戦で黄巣軍は壊滅的打撃を受け四散します。黄巣は故郷山東に逃げ帰ろうとするも泰山付近で追手に追いつかれ自害。その残党は李克用と朱全忠の軍によって鎮圧されました。黄巣の乱平定に功があった李克用と朱全忠、両雄並び立たずの格言通り次第に対立を深めます。唐王朝は成すすべもなく二人の実力者の闘争の行方を見守るしかありませんでした。

 両雄は、何度も戦いました。李克用は片目が極端に小さい異相で、独眼竜の綽名を持ちます。彼の指揮する精強な沙陀族の騎馬軍団は、甲冑も戦袍も黒一色に染め上げ鴉軍(あぐん、鴉はカラスのこと)と呼ばれ恐れられました。一方、朱全忠は数こそ多いものの支那の伝統に則った歩兵中心の軍だったため鴉軍に押しまくられます。

 戦一辺倒の李克用に対し、朱全忠は狡猾でした。戦で勝てないのなら政略で勝とうと、904年唐王朝第22代昭宗(僖宗の弟)に圧力をかけ、自分の根拠地に近い洛陽に強引に遷都させます。これを見ても当時の唐朝が何の力もなく、有力軍閥の傀儡化していた事が分かります。すでに実質的には滅亡したも同然ですが、その昭宗でさえも904年8月、邪魔になった朱全忠によって殺されるのです。朱全忠は操り人形として昭宗の9男哀宗を擁立しました。

 これは禅譲のために擁立しただけに過ぎず、905年朱全忠は何も知らない少年皇帝哀宗から皇帝の位を奪い即位しました。これが五代十国の始まり後粱です。後粱の太祖となった朱全忠開封を首都と定めます。後顧の憂いを断つため廃帝哀宗はじめ唐王朝の李氏一族全員を皆殺ししました。唐王朝滅亡です。




 後粱は、唐から簒奪したとはいえ勢力範囲は中原を中心に河南、山東、陝西だけに過ぎず河北では李克用が唐王朝の衣鉢を継ぐと称し後唐を建国しました。後唐も五代の一国で、両者は同時に存在していた事になります。やがて後粱は後唐に滅ぼされ、後晋後漢、後周と続きました。そして趙匡胤によって宋が建国され分裂した支那大陸はようやく統一されるのです。その年は、唐王朝滅亡の905年から55年後の960年。


 五胡十六国時代から変容した支那社会。宋が統一したのは従来の漢人社会ではなく北方遊牧民の侵入によって大きく様変わりした支那大陸だったと言えます。



                                 (完)