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明末の女傑 秦良玉

 久しぶりの世界史記事です。たまたま明末の農民反乱指導者で四川省において屠蜀(としょく 蜀【四川】地方の住民大虐殺という意味)という極悪非道なことをしでかした大悪人張献忠の末路がどうなったか気になって調べていた時に見つけた人物です。

 その前に張献忠(1606年~1647年)について簡単に紹介します。張献忠は細かい出自は不明ですが陝西省に生まれた元軍人で罪を犯して除籍されています。民末に起こった陝西省の農民反乱に参加、その凶暴性から台頭し、のちに明王朝を滅ぼした李自成が黄河流域から明の首都北京に進んだのに対し、湖北、湖南を転戦、最後は四川省に入って独自の勢力を築きました。

 張献忠は大西皇帝を称し、成都を首都とします。しかし所詮は流賊、まともな統治などできるはずはなく略奪暴行強姦殺人と暴虐の限りを尽くしました。気に入らないことがあるとすぐ人を殺す癖があり、自分が悪いにもかかわらず蜀(四川)地方の住民が統治に服しないという理由で手当たり次第に殺戮しました。当時の蜀の人口310万人に対し屠蜀後の人口はわずか1万8090人に激減したと言われます。

 まさに狂気の沙汰です。かつてモンゴル帝国がシナ本土に侵攻した時、恩賞として広大な所領を貰ったハーンの一族が住民を皆殺しにして放牧地にしようとしたエピソードを紹介したと思いますが、さすがにこれを実行した者はおらず、モンゴルの暴虐を宣伝するための作り話だと私は考えます。ところが屠蜀は歴史的事実です。住民が居なければ納税する者もおらず、国家として成り立たないという小学生でもわかることが理解できないのですから、張献忠は歴史上最悪の君主だったと思います。これより酷い人物はちょっと思い浮かびません。

 その極悪人、張献忠に抵抗し四川省の一部重慶地方の東南部で戦ったのが今回紹介する秦良玉(1574年~1648年)です。正史に列伝が残っている唯一の女性武将だと言われます。といってもネットで拾った浅い知識しかありませんので簡単に記すにとどめます。秦良玉は重慶府忠州(現在の重慶市忠県)に生まれました。

 現地の名門の生まれらしく教養のある女性で、成長して石砫(せきちゅう 現在の石柱トゥチャ族自治州)宣慰司の馬千乗の妻となりました。この宣慰司というのは明代少数民族が住む地域を監督した役職です。トゥチャ族は土家族とも書き主に重慶から湖北、湖南の境界辺りに住む少数民族です。現在の人口は800万人。チベットビルマ語系に属しミャオ族かそれに近い民族だと言われます。

 三国志劉備の呉遠征に参加した蛮将沙摩柯(しゃまか)の率いる五渓の蛮族がこのトゥチャ族だったのかもしれません。剽悍な山岳民族で、寄せ集めの張献忠の農民兵など寄せ付けない力を持っていました。もしかしたら秦良玉も純粋な漢民族ではなく、トゥチャ族の血が入っていたかもしれません。

 1599年楊応龍の乱が起こると夫と共に鎮圧軍に参加、自身も500の兵を率いて戦います。秦良玉の兵はトネリコでできた槍を持っていたため白杵軍と恐れられたそうです。ところが王朝末期にありがちですが、夫馬千乗が無実の罪で捕らえられ獄死しました。おそらく高官に賄賂を贈らなかったか、正論を吐いて煙たがられ陥れられたのだと思います。

 秦良玉に悲しむ暇はありませんでした。夫馬千乗に代わって石砫を統治します。おそらく彼女以外に任せられる人材がいなかったのでしょう。秦良玉の武勇は明王朝の中央部にも聞こえ1621年召し出されます。秦良玉は兄邦屏、弟民屏とともに対後金(後の清王朝女真族)戦争に参加、遼東地方を守り抜きました。この戦いで兄邦屏が戦死、良玉は朝廷に掛け合って遺族に恩賞を要求します。軍功を上げたのですから朝廷も聞き入れ邦屏は都督僉事を追贈されました。これが遺族に世襲されることとなります。

 故郷に帰った良玉ですが、同年蜀地方で奢崇明が反乱を起こしました。反乱軍は良玉にも反乱に参加するよう使者を送りますが、彼女はこれを斬り一族を上げて反乱鎮圧に乗り出しました。白杵兵の威力はすさまじく反乱は鎮圧されます。1630年後金軍が明本土に攻め込むと、良玉は朝廷の危機を救うべく立ち上がりました。明朝最後の皇帝崇禎帝は多くの朝臣が裏切って後金軍や李自成軍に寝返る中、忠義を貫き通した秦良玉に感動し4つの詩と恩賞を与えたそうです。

 転戦の末故郷に戻った良玉ですが、苦難は続きます。1640年今度は張献忠の反乱軍が蜀に乱入してきたのです。この時張献忠軍は各地の農民反乱軍を糾合し60万人とも言われる大軍に膨れ上がっていました。いかに秦良玉の白杵軍が精強とはいえ、多くても1万人もいなかったと思われますので、多勢に無勢本拠の石柱を守るのみでした。石柱は地図を見てもらうと分かる通り長江の南岸にあります。当時の城域は分かりませんが、現在の地図から想像すると馬家河が大きく湾曲する南側にあったと想像されます。

 一見して難攻不落の城壁都市でした。守るのは精強な白杵軍。張献忠軍は何度も攻め寄せたそうですが、その都度秦良玉に撃退され、ついに攻略できませんでした。張献忠が負傷するほどの激戦だったと言われ、蜀地方の中で唯一張献忠の支配を受けない地域となります。屠蜀の悲劇を思うと石柱の住民は幸運だったと言えるでしょう。

 屠蜀によって国家として成り立たなくなった張献忠は、蜀を捨て陝西地方に攻め込みます。その時の兵力はわずか700余りだったそうですから、張献忠がいかに無能か分かりますね。結局、この地方に進軍してきた後金軍に敗れ1646年10月戦死しました。とはいっても蜀地方には張献忠の残党が残っています。

 1644年明王朝は李自成の反乱軍によって滅ぼされ、最後の皇帝崇禎帝も自害しました。良玉は亡命政権である南明の弘光帝に仕え張献忠やその残党と戦い続けたそうです。秦良玉は1648年亡くなります。享年74歳。最後まで忠義を貫き通した一生でした。