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大清帝国Ⅳ  明の滅亡

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 北京が李自成の反乱軍の攻撃で陥落し、山海関を守る呉三桂が清に援軍を求めてきたというのはどのような状況だったのでしょうか。神宗万暦帝以後最後の皇帝毅宗崇禎帝(すうていてい)に至る明の歴史を簡単に振り返ります。

 明王朝末期、北虜南倭に苦しめられた明にとどめを刺したのは豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。かろうじて撃退したものの、明の国家財政は傾き辺境に対する統制力は失われます。海上には王直、鄭芝龍などの海賊が横行し、遼東地方では李成梁、毛文龍などの軍閥が台頭しました。建州女真の一族長ヌルハチが李成梁と朝鮮人参貿易で結びつき力を蓄えたことは前に書きました。

 明朝廷では、万暦帝が放漫財政の限りを尽くし1620年崩御。泰昌帝、天啓帝即位に功績のあった宦官魏忠賢が台頭します。魏は露骨な賄賂政治を行い、正義派官僚の東林党を弾圧しました。その権力は宰相(主席内閣大学士)を凌ぎ、皇帝の万歳に対し自らを「九千歳」と称えさせるほどでした。兄天啓帝の急死によって即位した明朝第17代崇禎帝はこのような魏忠賢の横暴を憎み、即位するやいなや魏の罪を上げまず僻地鳳陽への左遷を命じます。途中逮捕され処刑が待っていると悟った魏忠賢は自害しました。崇禎帝は魏忠賢の一族をことごとく誅殺します。

 このように崇禎帝は決して無能な人物ではありませんでしたが、宦官魏忠賢に諂っていた高官たちを信用できず常に猜疑の目で見ました。その結果、一人で清の侵略を防いでいた名将袁崇煥を讒言を信じ処刑するという致命的失策を犯します。明は、清との戦争で軍費がかさみ庶民に重税を課しました。万暦帝末期庶民に520万両という巨額の税金をかけていましたが、それに加えて崇禎帝はさらに165万両を追加します。国土は荒廃し、流賊が各地に発生するとその討伐費で730万両が必要になるという悪循環に陥りました。崇禎帝時代、1700万両という巨額な重税になったといいます。王朝が倒れる時は流民が大量に発生しますがこの時もまさにそうでした。折から連年の飢饉が発生しており流民化に拍車をかけます。

 そんな中で、山西地方に駅伝業者あがりの李自成が、陝西地方では張献忠が反乱を起こしました。当初は小競り合いを演じていた両者ですが、李自成が山西、河南、陝西地方へ、張献忠が四川、湖北、湖南地方に進出し棲み分けるようになります。張献忠は1644年8月四川省成都を陥れ大西という国を建国しました。張は残虐な性格だったと言われ、四川で大虐殺事件を起こします。当時310万の人口だった四川地方が大虐殺後1万8千人に激減するという凄まじさでした。このため人心を失い1646年8月清軍と戦って敗死しました。

 最後まで流賊のままだった張献忠と違い、李自成は拡大の過程で挙人(科挙のうち郷試に合格した者)あがりの知識人李厳らを迎え入れます。李厳は李自成に献策し、

1、略奪暴行を戒めること
2、耕地を農民に平等に分配する事(均田制)
3、当分の間租税を免除する事(免糧)

を約束させました。

 単なる農民反乱に過ぎなかった李自成軍は、これにより人々の支持を得はじめます。王朝末期官軍は腐敗しがちで兵匪と呼ばれるほど庶民に忌み嫌われましたから、李自成の方がましではないかと思ったのです。李自成軍は1641年洛陽を落とし万暦帝の三男福王朱常洵を殺害しました。皇族が殺されるほど李自成軍は巨大に膨れ上がります。1644年、李自成は西安で王に即位し国号を『大順』としました。同年2月、北伐を開始。3月には北京に達しました。

 李自成の勢力をたかが農民反乱軍と侮っていた朝廷は、目前に迫った反乱軍を見て驚愕します。崇禎帝は皇帝の誇りにかけて徹底抗戦を叫びました。ところが和睦の使者にたったはずの朝廷の高官が李自成に寝返り、逆に北京に戻って皇帝に降伏勧告をする始末です。絶望した崇禎帝は、息子たちを紫禁城から脱出させ足手まといの側室や娘たちは自らの手で殺害しました。その際娘に対し「なぜお前は皇帝の家に生まれたのだ」と嘆いたそうです。周皇后の自害を見届けた崇禎帝は、紫禁城の北にある景山に登り首を吊って自殺します。この時従ったものは宦官王承恩ただ一人だったと伝えられます。享年34歳。明王朝のあっけない滅亡でした。

 ちなみに、最初に崇禎帝が手にかけた16歳の娘長平公主は皇帝が泣きながら刀を振るったため手元が狂い急所がそれ息を吹き返します。彼女は王承恩の機転で紫禁城を脱出できました。一時李自成の反乱軍に捕らえられるもその後母の実家周氏に匿われ清軍が北京に入城すると摂政王ドルゴンに庇護されます。ドルゴンの計らいで婚約者だった周世顕と結婚、ただ彼女自身は隠棲を望んでいたそうです。そして明滅亡後2年で短い生涯を終えます。


 首都北京を陥れ明王朝を滅ぼした李自成。これまで我慢してきた李自成軍は、北京の巨大さに舞い上がりすさまじい略奪暴行強姦殺人を働きます。所詮流民軍は流民軍に過ぎなかったのです。付け焼刃の慎ましい態度は誘惑によって地が出ました。李自成にとって後はしかるべき儀式を経て皇帝に即位するだけでしたが、気になる存在が一人だけいました。遼東総兵として山海関を守る呉三桂です。呉三桂は明の最精鋭部隊15万の大軍を握っていました。ここで軍の官職に総兵と経略があることを思い出された方もいるでしょう。

 明の官制では軍を司る五軍都督府の下辺境に設けられた鎮守府の司令官を総兵官と呼びました。一方、経略とは臨時に設けられた最高官でその地方のすべての軍権と行政権を握ります。総兵官の朝廷における地位は良く分かりませんが、呉三桂が平西伯の爵位を授けられていることから三品以上の高官だったことは間違いありません。三品と言えば中央官制では名誉職九卿、行政機関である六部の次官(左右侍郎)に当たりました。

 李自成は、呉三桂に使者を送り帰順を促します。悩む呉三桂でしたが、北京から驚くべき知らせが入りました。北京の自邸に残してきた愛人陳円円が李自成軍に奪われたというのです。陳円円は蘇州一と謳われた名妓(日本で言えば最高級の花魁にあたる)で呉三桂が千金をはたいて手に入れた絶世の美女でした。溺愛する陳円円を奪われたと知り呉三桂は激怒します。李自成軍は、自らの愚かな行為によって命運を尽きさせたと言えます。本来なら陳円円を大切に保護し、人質として呉三桂に投降を促すべきでした。そうすれば李自成は明に代わる新たな王朝を開けたはずです。それが台無しです。

 李自成に敵対すると決めた呉三桂ですが、気になるのは背後の清軍です。自分が李自成を討伐するため留守にすれば、背後から清軍が攻めかかり挟み撃ちで自分が滅ぼされます。悩んだ呉三桂は、歴史的な失策を犯しました。清に使者を送り援軍を頼んだのです。申し出を受けた摂政王ドルゴンは、これを機に支那大陸を制覇しようと決意します。全軍を率いて山海関に至ったドルゴンは、呉三桂と会見し彼の軍を自軍に加えました。

 呉三桂の思惑は清はあくまで援軍で自分が主役として李自成を滅ぼし新たな王朝を開くつもりでしたが、政治力で遥かに勝るドルゴンにそのような小細工は通用しませんでした。清軍の威勢で脅し援軍ではなく自分が主役となったのです。

 呉三桂の軍を加え30万近い大軍に膨れ上がった清軍は、やすやすと山海関を通過し北京に殺到します。その際、ドルゴンは「明の崇禎帝を滅ぼした逆賊李自成を討つ」という大義名分を掲げました。その実態は自分が明にとって代わろうという野心でしたが、李自成をうまく利用したのです。


 次回、李自成の末路と清の天下統一、鄭成功の活躍を描きます。