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劉邦、朱元璋が成功して李自成、張献忠が失敗した理由

 世界史、支那史に興味のある方は少ないと思うのでスルーして下さいな。世界史書庫の前記事秦良玉の話で明末の反乱指導者張献忠について触れましたが、あまりにもお粗末な末路でした。せっかく蜀(四川地方)を得たのに、それを生かすどころか無意味な殺戮をして国家として維持できなくなり、蝗がその地域を食べ尽くして他の地方に移るように蜀を捨て陝西省に攻め込もうとしたところを女真族の後金(のちの清王朝)軍に攻められて敗死するという最期です。おそらく支那史上でも最悪の支配者で無意味に殺された蜀の人たちは浮かばれません。

 しかし、蜀地方は諸葛亮の天下三分の計でも分かる通り四方を山岳に囲まれた要害の地で歴史上何度も独立勢力が生まれました。さすがに人口がそこまで多くないので蜀から打って出て天下を統一した勢力はいませんが、数十年間独立を維持することはできたはず。張献忠がサイコパスで物の道理も分からない異常者だったと言えばそれまでですが、ちょっと理解し難い行動です。

 そこで歴代王朝の創始者はどうだったか考えてみました。秦の始皇帝は元々戦国七雄の一角で最有力の秦王、後漢光武帝劉秀は漢室の流れをくむ名門で南陽の豪族出身(という事は私兵を持っている)、晋の武帝司馬炎は祖父司馬懿以来魏王朝の実力者で魏王朝を弱らせた末に簒奪、隋と唐は鮮卑族出身で漢化した軍閥、宋の太祖趙匡胤は五代最後の王朝後周の最高軍司令官で数十万の軍を握っていたなど有利な条件の者ばかりでした。

 その中で前漢の高祖劉邦と明の朱元璋だけは庶民から身を起こし天下統一したので、同じく農民反乱の指導者李自成や張献忠と比較できると思ったのです。とはいえ、劉邦は割と裕福な農民出身で小役人とはいえ秦に仕えていたので、本当の意味で貧民から立身出世したのは乞食坊主の朱元璋だけだったかもしれません。一応朱元璋の祖父も安徽省有数の大富豪だったそうですが、風水に凝りすぎて天子が生まれる天子穴という龍穴を探すために全財産をはたきました。この話は不思議書庫で書庫で書いたような気がします。

 自らの王朝を開いた劉邦朱元璋と李自成や張献忠との違いは人材を生かせたかどうかだと思います。劉邦には漢の三傑と謳われる丞相の蕭何、軍師の張良、将軍の韓信をはじめとして多士済々が揃っていました。劉邦は軍を指揮するのは下手ですが、韓信が評するところの将に将たるの器で、天下統一するにふさわしかったのでしょう。

 朱元璋も有能な将軍である徐達、丞相の李善長、軍師の劉基など人材が揃っていました。朱元璋はこれら有能な人材の意見を取り入れ天下統一を果たしたのです。李自成も北京を攻略し明王朝を滅ぼすまでは知識階級を登用し彼らの意見を取り入れていたそうです。ですから最後は明を滅ぼすことが出来たのでしょう。

 ところが北京を占領した途端、箍が外れます。李自成軍は暴徒と化し略奪暴行強姦殺人と暴虐の限りを尽くしました。ここまでくると、李自成に従っていた知識階級は彼を見限って離れます。李自成が一番気を付けないといけない人物は、明の主力軍を握り山海関で女真族の後金軍と対峙している呉三桂です。ところが欲望に任せて呉三桂が北京に残してきた愛妾陳円円を奪ったために呉三桂を怒らせます。呉三桂はあろうことか後金軍と和睦し自ら尖兵となって北京に攻め込みました。

 呉三桂軍と後金軍に襲い掛かられ命からがら北京を逃げ出した李自成は最後は元の流賊にまで落ちぶれ、略奪しようとして現地の農民の自警団に殺されるという悲惨さでした。張献忠に関しては、もっと救いがたい最期です。無惨に殺された蜀の人々の恨みを思えば、後金軍に捕らえられ車裂きの極刑で殺されて欲しかったとすら思います。戦死だとあまり苦しまずに死んだはずですから。

 李自成や張献忠と、天下統一した劉邦朱元璋との一番の違いは何でしょうか?私は自分を律する自制心だと考えるんですよ。最高権力者となって庶民の生殺与奪の権を握れば好き勝手出来ます。殺したいと思えば簡単に殺せるし、奪いたいと思えば奪えます。綺麗な女がいたら人妻であろうが何だろうが自分のものにできるのです。しかしそれをやれば人心が離れます。

 劉邦にしても朱元璋にしても、こういった欲望が無かったとは言いません。ただ良臣の意見を素直に聞き自制したから天下の輿望を集められたのでしょう。特に張献忠は劉邦朱元璋とは真逆の人間でした。だから一時は勢力を誇っても維持できず惨めに滅び去ったのだと思います。

 

 ここからは余談ですが、もし張献忠がまともなら300万人の人口しかいない蜀に60万人の大軍で攻め込むような愚は犯さないと思います。300万人の人口で維持できる適正兵力は外征で10万人、動員して27万人くらいです。せっかく湖北、湖南を平定したのだから30万人は現地に残し、30万人で蜀に攻め込むべきでした。現地の明の官軍の抵抗が激しく湖北、湖南を捨てざるを得なかったという事情はあったのでしょうが…。

 いくら戦乱で荒廃したとはいえ、湖北湖南の湖広地方は明代「湖広熟すれば天下足る」と称された一大穀倉地帯でした。そして長江を下った江東地方も宋代「江浙熟すれば天下足る」と呼ばれた穀倉地帯です。私なら蜀に入るより長江の険をたのんで南京から江蘇省浙江省に攻め込みますけどね。湖広から江浙地方を支配できれば60万人でも100万人でも兵力維持できたと考えます。

 まあ、そういう常識的なことも理解できないほど愚か者だったという事なのでしょう。あるいは明側に智者がいて長江を下らせるより上流の蜀地方に追い込んだ可能性はあるかもしれません。こればかりは当時の状況を調べないと分かりませんが…。

 時流に乗れば流賊の親玉でも一時的には大きな勢力になれるのでしょうが、それを維持し天下平定できるかどうかは、人材を使いこなすことと、人心を失わないための自制心が必要だというのが私の結論です。