◇第四章 「明の太祖」
実は相変わらず、国家の危機も顧みず内紛の真っただ中でした。世界を征服した蒼き狼たちの子孫としては情けない限りですが、結局元朝内で実権を握ったのは河南軍閥チャガン・テムル(察罕帖木児)の養子(甥)のココ・テムル(擴廓帖木児)でした。
しかし大都の宮中まで巻き込んだ内訌で実態はボロボロでした。
朱元璋がこのチャンスを見逃すはずはありません。1368年北伐の大号令はついに発せられました。
総大将は、挙兵以来の同志で朱元璋の忠実な部下である徐達。率いるは総勢百万とも号する大軍です。
明軍は破竹の進撃で内紛で疲弊した元軍を圧倒します。三方から元の首都大都を攻め、たまらず元朝最後の皇帝順帝は首都を捨て北走します。以後モンゴル高原で北元としてしばらく余喘を保ちますが、統一はまだ1368年中の出来事でした。
愛していた皇太子朱標は、父と違い優しい性格でした。このため自分の死後帝国の安泰を図るにはどうしたらいいのか悩みぬきます。
そして朱元璋の出した結論は建国の功臣達の粛清でした。まず1375年、劉基が宰相胡惟庸によって毒殺されます。これは朱元璋の指示ではなく創業の功臣グループである淮南閥と、劉基を指導者とする浙江閥との権力争いの結果だといわれますが、この事件を朱元璋は最大限に利用します。
1380年、朱元璋は劉基毒殺の首謀者として宰相胡惟庸の罪を問います。さらに外国と通謀し謀反を企んだとして胡惟庸派の重臣たちをことごとく逮捕、処刑しました。本人だけでなくその家族まで皆殺しになったといいますからすさまじい事件でした。連座して殺された者が一説では三万人もいたとされますから驚かされます。
世にいう胡惟庸の獄です。さらに1390年には大功臣李善長までが胡惟庸の獄との関係を問われ死を賜りました。
明朝建国で功績のあった諸将のうち9割が粛清されたともいわれ、このため朱元璋は後世非常に悪いイメージを持たれています。主要な功臣で生き残ったのは湯和一人でした。彼は天下統一後間もなく引退していたので助かることができました。徐達も1385年病死していたため被害に遭いませんでしたが、生きていたら確実に粛清されていたに違いありません。
以後、明は宰相制度を廃止し皇帝独裁の国家体制を築きます。
しかし、朱元璋が後世の誹りを覚悟しつつ皇太子の継承を確実なものにした努力は、1392年肝心の朱標が病死した事で無に帰しました。朱元璋の衝撃は計りしれませんでした。後継者は朱標の息子、皇太孫朱允炆(後の建文帝)に定められます。
朱元璋は、このかわいい孫の治政を確実なものにするためさらに粛清に力を注ぎました。
臣下を信じず、軍の指揮権はすべて自分の皇子たちに委ねます。しかし朱元璋の臣下に対する厳しい姿勢は、建文帝の時代には軍の指揮権を握る皇子たちへの圧迫となりました。
それに耐えかねた朱元璋の四男、燕王朱棣(後の永楽帝)が建文帝に対し反乱をおこし、これが靖難の変に繋がるのですから結局朱元璋の努力は水泡に帰しました。永楽帝はいきすぎた皇族や臣下圧迫策を緩和する事が真っ先に行った政策だったそうですから、それだけ明朝の群臣は不安を感じ苦しんでいたのでしょう。
朱元璋は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年71歳で波乱の生涯を終えました。
朱元璋の功罪を考えると、ここまで功臣を殺し尽くした事は大きな罪です。王朝成立後の功臣粛清は中国ではよくある事ですがここまで徹底したのは彼だけでしょう。いくら王朝安泰のためだとはいえ、例えば宋の太祖趙匡胤のように平和的な手段で引退させることもできたはずです。後継者が年端もいかない少年だったことも大粛清を拡大させた原因の一つだったと思います。猜疑心が無用な犠牲を出しすぎました。
一方、功は異民族支配で塗炭の苦しみを味わっていた漢民族を解放し平和をもたらしたことでしょう。明の時代に入って人口は増え、農業生産は上がり商業も発展しました。永楽帝の時代、大規模な外征ができたのは、洪武帝時代の富の蓄積のおかげだと思います。