三国志演義の愛読者なら、江東の孫堅が董卓討伐戦の最中洛陽郊外で伝国の玉璽を古井戸から発見し、その所有権を巡って孫堅、袁紹、袁術、劉表ら諸侯の間で玉璽を奪い合う大きな争いが起こった事を覚えておられる方も多いでしょう。
伝国の玉璽とは、【秦の始皇帝の時代に霊鳥の巣が見つかり、そこに宝玉があった。これを瑞兆とした始皇帝は、李斯に命じて「受命於天既壽永昌」と刻ませ、形を整え、皇帝専用の璽としたという】(ウィキペディアより)というもので、伝国璽は帝位の象徴として歴代中国王朝に伝えられます。玉(ヒスイ)は中国では最も珍重された宝石で、そのために玉体、玉音など玉は皇帝(日本では天皇)の象徴ともなりました。
玉璽を持つ者=天命を受け皇帝になった者という解釈ですから、歴代王朝の創始者が血道をあげて玉璽を捜索したのも理解できます。
しかし元の伝国璽は、元末明初の混乱期に失われてしまいます。元朝最後の皇帝ドゴン・ティムールが1368年明の洪武帝(朱元璋)に追われてモンゴル高原に逃亡する際持って行ったまま、彼の死後行方不明になったのです。
北元の歴代大汗をはじめモンゴル高原で実権を握った各部族の長たちは元朝の伝国璽を血眼になって捜しました。玉璽を発見することがすなわち自分がアジアの支配者として天命を受けたと解釈できるのですから当然です。
伝国璽が行方不明になってから200年余りが過ぎました。あるモンゴル人が崖の下で家畜の番をしていると一頭のヤギが餌も食べず無心に地面の一点を掘っているのを発見します。不審に思った彼がそこを掘り返してみるとなんと行方不明になっていた元朝の伝国璽ではありませんか!
驚いた彼は部族の長の元に届けます。その後玉璽は人々の間を転々とし最後はチャハル部のリンダン汗(ハーン)の所有に帰しました。
チャハル部は現在のモンゴル高原東部から大興安嶺山脈の東麓(モンゴル東部三分の一と中国東北部の西半分くらい)に勢力を張った部族で、チンギス汗の正当な子孫(黄金の氏族)として誇りを持っていました。モンゴル各地の部族の盟主でもあったため、リンダン汗は自分が元朝の伝国璽を得たことを天命が回ってきたと解釈したのも不思議ではありません。
チャハル部はモンゴル再統一、あわよくば大モンゴル帝国の再興をはたそうと各地に攻伐を繰り返します。しかし不幸な事に、すぐ東隣には女直(ジュシェン)族を統一し後金国を建国した一代の英傑ヌルハチが興っていました。
しかし数百年後のこの時、彼我の軍事力は逆転していました。高麗人参と毛皮の交易で巨利をあげ豊富な経済力を背景に軍事力を強化した後金軍は、チャハル部の侵略を撃退したばかりか、逆に大興安嶺を越えてチャハル部の本拠地にさえ攻め込みました。
隣国後金では初代ヌルハチはすでになくホンタイジ(太宗)の御代になっていました。ヌルハチ時代の1619年サルフの戦いで明の大軍を撃破するなど日の出の勢いの後金は、防備の堅い山海関方面の攻略を諦め、明を裏口から攻めるべく、その通り道であるチャハル部を攻めました。
英雄リンダン汗の死去もホンタイジにチャハル部侵略を決意させたのでしょう。指導者をなくしたモンゴル軍は各地で後金軍に敗退を重ね、たまりかねたリンダン汗の遺児エジェイは母スタイ太后とともに後金軍に降伏します。そのさいエジェイは元朝の伝国璽をホンタイジに差し出したといわれます。
流転を重ねた元朝伝国璽は結局ふさわしい持ち主のもとに還りました。1636年玉璽を得たホンタイジは満州(女直)族、モンゴル族、漢族の三族から推戴を受け皇帝を名乗ります。国号は大元と同じく「天」を意味する大清と号しました。
ホンタイジは1637年明の属国だった李氏朝鮮を討って柵封国とすると明朝を圧迫しつつも1643年死去します。しかしその子フリン(順治帝)の時代についに山海関を抜き明を滅ぼした農民反乱軍の李自成を追い北京に入城しました。1644年のことです。