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世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第三章 ‐

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◇第三章「鄱陽湖の決戦」
 
 南京応天府(集慶)を拠点に朱元璋は外征を繰り返します。こうして百キロ四方ほどの領土を手に入れました。
 
 東系紅巾では最大勢力となり、いつ独立してもおかしくないほど成長しました。朱元璋は明らかに天下を意識して行動します。その軍は軍紀厳正で紅巾の反乱軍としての性格を捨て去り元朝を滅ぼし漢民族の国を再び建国することを目標としました。
 
 しかし、朱元璋は完全に小明王との関係を断つことはしませんでした。というのも江蘇から浙江にかけての豊かな江東の地を支配する「呉」の張士誠、湖広から江西にかけての広大な領土を持ち漢民族反乱軍で最大の勢力を誇る「漢」の陳友諒という大敵に挟まれていたからです。
 
 小明王の紅巾軍残党は、朱元璋元朝の間の緩衝材としての役割を果たし、直接の圧力を受けなくて済んでいました。
 
 その間に朱元璋は、同盟を結んで自分を滅ぼそうとする呉と漢に対抗することができました。ちなみに応天府を首都としたことから朱元璋も「呉」国を名乗ります。このため朱元璋の方を西呉、張士誠の方を東呉と区別しますが紛らわしいので張士誠の方だけを呉と呼びます。
 
 1360年、陳友諒は大軍を率い応天府近くまで攻めよせます。この時は諸将の必死の防戦でなんとか撃退できましたが、朱元璋はこの戦いをうけて、まず陳友諒の漢を打倒することが最優先だと悟りました。
 
 張士誠は豊かな江東で満足し、自分から撃って出る事は無かろうという判断です。
 
 
 1363年、陳友諒は60万の大軍をもって再び侵攻してきました。朱元璋は諸将の反対を押し切ってこちらもありったけの兵力である20万を率いこれを迎え撃ちます。
 
 三倍の兵力とまともに戦ったら不利ですから、朱元璋は策を弄します。部下に偽りの降伏をさせ陳友諒の大水軍を鄱陽湖におびき出すことに成功しました。こちらも水軍を繰り出し、長江への出口を塞いだうえで焼き討ちを敢行します。不意を突かれた陳友諒軍は大軍であったことも災いして大混乱に陥りました。
 
 決戦は三日間にも及び、朱軍はついに宿敵陳友諒を撃破することに成功します。陳も戦死し漢軍の残党は本拠地武昌に逃げ込みました。翌年には後を継いだ陳理が降伏、漢は滅亡しました。
 
 最大の宿敵を滅ぼした朱元璋は、もう一つの大敵呉の張士誠を討つべく1364年攻撃を開始しました。
 
 張士誠との激闘が続いていた1366年、長江の北では紅巾軍の勢力がついに元軍に滅ぼされ、小明王は朱元璋を頼って南下します。が、もはや利用価値のなくなった小明王を朱元璋が生かしておくはずもなく、船の底に穴をあけて渡河中に溺死させたのです。
 
 やり口があまりにもえげつないような気がしますが、これが朱元璋のやり方でした。自分にも部下にも厳しく利用価値のなくなった者は容赦なく切り捨てました。
 
 このため、朱元璋の厳しいやり方に付いていけなくなる諸将が出てくるのはやむを得なかったのかもしれません。中でも挙兵以来の宿将である邵栄の謀反は衝撃でした。以後朱元璋はますます自分の部下に対しても猜疑心をつのらせていきます。
 
 ただ朱元璋のために弁護しておくと、厳しかったのは自分の部下たちに対してだけで、領民たちには善政を布きました。天下統一のためには領民の支持が絶対条件ですから当然ではありましたが、これが朱元璋による天下統一の最大の要因でした。
 
 1367年、蘇州を中心に頑強に抵抗した張士誠がついに降伏します。朱元璋はこれを処刑しついに天下取りレースの再先頭に躍り出ました。
 
 1368年、朱元璋は応天府で即位、元号を洪武とし国号を大明と定めます。