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三国志Ⅶ  小覇王孫策

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 李傕・郭汜が曹操に滅ぼされた後董卓の残党は荊州南陽の宛城に集結します。董卓残党軍最後の大将だった張済はすでに亡く甥の張繍(ちょうしゅう)が、賈詡を参謀役にしきりに蠢動ていました。
 
 許都を都に新政を始めた曹操にとってこれは目の上の瘤でした。197年春、曹操は15万の兵力で宛を囲みます。とても敵わないと悟った張繍は降伏しました。ところが曹操が亡き張済の未亡人で絶世の美女だった鄒氏(すうし)を見染め側室にした事が分かると張繍は激怒します。賈詡と相談し油断していた曹操の軍を奇襲、ために曹操軍は大敗を喫しました。ばかりか逃げる曹操をかばって長男の曹昂、甥の曹安民、さらには勇将典韋までも失うという惨憺たる敗北でした。
 
 
 時代はやや遡ります。父孫堅を失って嫡男孫策は淮南の袁術保護下にありました。しかし袁術は若い孫策の器量を恐れ重要な役を与えず飼い殺しするつもりでした。194年、19歳になった孫策は、父から受け継いだ伝国の玉璽を形に三千の兵力を借り受けます。朱治黄蓋韓当、程普ら父孫堅以来の旧臣と共に長江を渡り江東に自立する腹を決めました。
 
 程普は、孫策に対し「江東のニ賢を得れば殿の覇業は成るでしょう」と進言します。ニ賢とは当時江東の地に隠棲していた張昭、張紘でした。孫策は自ら彼らのもとに赴き自分に協力してくれるよう懇願します。彼の熱意に打たれた二人は協力を快諾しました。
 
 さらに進軍すると、孫策の親友で揚州廬江郡の豪族だった周瑜(しゅうゆ、字は公瑾。175年~210年)が手勢を率いて合流します。喜んだ孫策周瑜を帷幕に加え、さらに蒋欽、周泰、陳武、凌操など将来呉の柱石となるべき勇将たちが続々と参陣しました。
 
 
 孫策の最初の標的は、揚州刺史劉繇(りゅうよう)です。孫策の叔父呉景と対立し苦しめていたからです。実は袁術に兵を借りる口実が呉景救援でした。孫策は呉景の軍と合流し五千ほどに膨れ上がります。195年には劉繇の武将張英の守る当利口を制圧、さらに劉繇の籠る牛渚の要塞を攻略しました。孫策が快進撃を続ける中江東の豪族たちは雪崩を打って孫策軍に参加、兵力は瞬く間に数万を数えるようになります。
 
 孫策が喜んだのは、劉繇を滅ぼした事より勇将太史慈を得たことでした。以後彼は呉の有力な将軍として活躍します。孫策は短い期間で丹陽郡、呉郡、会稽郡(長江下流域)を制圧、江東の小覇王と呼ばれました。
 
 孫策の勢力はかつての呉国の故地であったので以後呉と呼ばれます。孫策は広く人材を集め呉は新興の意気に燃える強国となりました。国内を固めた孫策は197年袁術からの自立を決意、使者を送って「借り受けた兵力に値する物を返還するので玉璽を返して欲しい」と申し出ます。ところが、袁術は激怒。玉璽を返さなかったばかりか逆に呉に攻め込む気配さえ見せます。孫策は、張昭の進言を容れ曹操に救援を求めました。曹操はこれを受け袁術攻撃の準備を進めます。
 
 
 ところで玉璽を得た袁術ですが、野望に燃え皇帝を名乗るようになります。しかし世間はこれを認めず偽帝と呼んで忌み嫌いました。曹操は、孫策劉備呂布らと語らって四方から袁術を攻撃、たまらず袁術は淮南の本拠寿春を捨て淮河下流のデルタ地帯に逃亡します。
 
 
 このままでは滅亡も時間の問題だと危惧した袁術は、使者を送って呂布と秘かに結びました。呂布としても曹操のために袁術を滅ぼしいたずらに曹操の勢力を拡大するのも面白くないので両者の利害は一致。まずは邪魔者の劉備を除くため198年小沛を攻撃しました。
 
 
 
 はてして絶対絶命の劉備の運命は、そして呂布袁術連合軍はこの後どう動くのか?それは次回の講釈としておきましょう。