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隋唐帝国11  武韋の禍(ぶいのか)

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 唐三代皇帝高宗(在位649年~683年)といえば、663年には白村江の戦いで日本・百済連合軍を破り668年には新羅と同盟し懸案の高句麗を滅ぼすなど対外的には唐の国威を大きく上げた皇帝です。ところが実際の政策は小利口な官僚や有能な軍人が成した成果で、高宗本人の資質はむしろ劣っていました。父太宗が貞観の治で作り上げた国力の上に乗っかっていただけという厳しい見方もあります。

 彼の資質を象徴するのは、武皇后の冊立でしょう。武皇后すなわち武照は実は父太宗の側室でした。太宗は最初溺愛しますが、武照が聡明だった事を警戒し将来唐室の災いとなるのを恐れ遠ざけます。ところが皇太子時代から高宗は武照と通じ、父太宗が亡くなり彼女が慣例通り出家していたのをわざわざ還俗させ皇后にしました。

 義理とはいえ父の愛妾は義母に当たります。それと通じるのも言語道断ですが、父の死後自分の側室にするのは畜生にも劣る行為でした。実は支那史上こういう皇帝は何人か出ており楊貴妃を召しだした玄宗皇帝もその一人だったのです。ですから魏徴が守成の方が難しいと主張したのも私は納得できます。絶対権力を握った皇帝は、自らが律しないと他から律されることはないのです。

 高宗の後宮に上がった武照は、王皇后と蕭淑妃の対立を上手く利用し陰謀の限りを尽くして皇后に立てられました。かつて太宗が唐室の混乱の元凶となるとして自分の死後武照に死を賜るよう遺言したそうですが、その危惧は当たったわけです。一旦皇后になると、武照は無能な高宗を尻に敷き反対者を次々と粛清しました。

 廃された王皇后、蕭淑妃を処刑、初唐三大家として有名な褚遂良(書家・政治家)などは高宗に諫言した事で武照の怒りを買い左遷されます。高宗は意志薄弱で武照の思うがままでした。武照自身、自分の権力を維持するためには有力者を排除することが最優先だと承知します。太宗の皇后を出した外戚長孫氏一族は追放され、狄仁傑・姚崇・宋璟など身分の低いものを抜擢し側近にしました。

 武照に引き上げられたという事で佞臣というイメージがありますが、狄仁傑は剛直の士としてむしろ武照の暴走を抑える役割でした。武照とて馬鹿ではなく、政治が乱れると国民の不満があがり自分の権力が危うくなると知っていたのでしょう。有能な人材を抜擢したという事は、権力奪取の混乱は自分と唐王室の周辺だけに留め国政にまで影響を及ぼさないという方針だったと思います。

 いくら無能でも、自分が蔑ろにされている事は高宗にも分かります。そしてついに癌である武后廃立を決意しました。が、愚か者ゆえに計画はすぐ露見し武后に毒を盛られ失明します。失意の高宗は683年亡くなりました。高宗の死後、高宗と武后の子の中宗が即位。ところが中宗の皇后韋氏が自分の血縁者ばかり登用するのを気に入らず中宗を廃位してしまいます。同じく自分の子睿宗を即位させ垂簾聴政(すいれんちょうせい)を続けました。

 垂簾聴政とは、皇帝が幼い時その母である皇太后が摂政として政治を行う事を指します。彼女の権力欲は止まるところを知りませんでした。690年、息子睿宗を皇太子に格下げし自分が皇帝に即位するという暴挙を行います。これが則天武后です。国号を『周』とし聖神皇帝と称します。逆らうものは次々と殺され、または左遷されました。このままでは唐王朝は滅亡し周となるのも時間の問題となります。

 権力の妄執に取りつかれた則天武后ですが、彼女が晩年重用した張易之・昌宗兄弟が横暴を極めたため人心は離れました。唐王朝の遺臣たちも復讐の機会を待ち続けます。705年宰相張柬之は則天武后に廃された中宗をひそかに迎え兵を上げます。すでに則天武后の政治は民衆に憎まれていたため、味方する者はなく反乱軍によって張兄弟は捕えられ斬られました。こうなると則天武后も成すすべはありません。さすがに中宗の実の母なので殺すわけにもいかず、則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して引退させました。

 こうして再び中宗は皇帝に返り咲きます。ところが今度は中宗の皇后韋氏が力を持ち始め国政を壟断するようになります。則天武后韋氏の中に自分と同じような資質を発見したからこそ中宗を廃位したのでしょう。韋后は一族を国家の枢要な地位に就け反対者を排除しました。韋后は淫乱でもあったと言われ710年その行為が発覚しそうになります。追及される事を恐れた韋后は、同じく暴政仲間の娘安楽公主とともに中宗を毒殺してしまうのです。

 則天武后は確かに悪女ですが、少なくとも民生の安定には努めました。ところが韋后は自分の欲望のままに行動し暴虐な事も平気で行います。則天武后韋后の時代は、武韋の禍と呼ばれ唐王朝滅亡の危機でした。このまま唐は滅亡するのでしょうか?

 次回玄宗皇帝の開元の治と唐王朝を揺るがせた安史の乱について語りましょう。