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隋唐帝国Ⅸ  虎牢関の戦い

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 支那大陸の地形に詳しい方ならご存知だと思いますが、洛陽盆地は中原のやや西に位置し、北は黄河、南は伏牛山脈の支峰が黄河まで迫る狭い盆地でした。西には函谷関、東には虎牢関(河南省滎陽市)があり盆地に入る者を遮断します。もっとも西の函谷関は漢代に東へ移転され、洛陽盆地と関中盆地(長安がある)を隔てる役割は潼関に代わりました。

 李世民の唐軍、王世充の鄭軍の兵力は不明ですが、私の推定では唐軍7万、鄭軍3万ほどでしょうか。10万の夏軍に対抗するためにはできるだけ多くの兵力を虎牢関に籠らせないといけませんが、かといって洛陽の包囲を手薄にすると今度は王世充に背後から攻められます。あくまで想像ですが、李世民は洛陽包囲に3万の兵力を残し4万で虎牢関に入ったと私は思います。

 竇建徳の夏軍10万、一方李世民の唐軍4万。いくら李世民が有能であっても倍以上の兵力差を覆すのは容易ではありません。李世民は、虎牢関の要害を頼みに貝のように閉じ籠もりました。洛陽の王世充は何度か突破を図りますが、唐軍も必死に守り戦線は膠着状態に陥ります。膠着状態と言えば虎牢関も同様でした。この日のために李世民は長期戦を覚悟して兵糧を十分に準備しておりまだまだ困る事はありません。一方、戦いを安易に考えていた竇建徳は短期決戦で唐軍を殲滅できると踏んでおり最低限の兵糧しか準備していませんでした。

 対陣は数カ月に及びます。こうなると夏軍は大軍だけに補給に苦しむ事になります。こういう時は、民間から兵糧を徴発して急場を凌ぐものですが、竇建徳は民を愛する義軍を標榜していただけにそれもできませんでした。徴発や略奪をしたら、竇建徳の名声は地に堕ち国家を保つこともできなくなるのです。

 もし李世民がここまで見越して籠城戦を選んだとしたら凄いと思いますが、戦いの一ファクターとして彼が読んでいた事はおそらく間違いないでしょう。現実的にまともにぶつかれば数の上で不利なので、敵が弱点を見せるのをじっと我慢して待っていたというのが実情だったと思います。

 補給に苦しみかといって民から略奪するわけにもいかない竇建徳は、一時的に撤退し兵糧のある策源地まで戻る事を決意します。具体的には彼の領国である黄河の北岸河北。同盟していた王世充を事実上見殺しにする決断ですが、背に腹は代えられません。621年、夏軍は陣を払って粛々と撤退を開始しました。

 李世民は、この機会を待ち構えていました。数日前から夏軍の動きを諜者を放って察知していた李世民は、夏軍が動き出すとすぐさま虎牢関の城門を開き撃って出ます。すでに本国に帰る事に心を奪われていた夏軍は完全に油断していました。唐軍の主力は軽騎兵です。李氏は鮮卑族の武川鎮軍閥出身ですから歩兵主力の夏軍にこれを防ぐことはできませんでした。

 機動力に勝る唐軍は、側面にも回り激しく攻めかけます。夏軍は四分五裂になり潰走しました。無事に黄河を渡った者は十人に一人もいないという惨憺たる大敗北です。総大将竇建徳すらも唐軍に追いつかれ捕えられてしまいます。竇建徳は直ちに処刑されました。頼みの綱である夏軍が壊滅し竇建徳が殺された事を知った洛陽の王世充は、これ以上の抗戦を諦め李世民に降伏します。

 虎牢関の勝利によって華北における唐の覇権は確立しました。後は掃討戦にすぎません。李世民の秦王府には文官として房玄齢・杜如晦・魏徴、将軍では李勣・李靖・尉遅敬徳らが集まりました。彼らは皆建国の功臣としてふさわしい有能な者たちで、それらが高祖李淵ではなく息子李世民に直接仕えていたことから李世民が帝位を継ぐのは時間の問題だと考えられます。

 果たして李世民に帝位への野望はあったのでしょうか?私は無かったとは言えないと思います。しかし聡明な彼は、よほどうまく運ばないと後世簒奪のそしりを受ける危険性が高い事も十分承知していました。高祖は長男李建成を皇太子に定めます。ただ天下統一最大の功労者は李世民でしたので、天策上将に任じ帝国で最大の権威を与えました。両雄並び立たず。例え李世民にその気がなくとも、彼に仕える者たちは自分たちの主君が凡庸な李建成の下風に立つ事は我慢できなかったのです。

 実は皇太子李建成は温厚篤実な人物で、弟李世民さえいなければ無難な二代皇帝として国を誤る事はなかったと思います。ところがここに高祖の四男李元吉という人物が登場します。李元吉は野心家で皇帝の地位を虎視眈々と狙っていました。ただこのままでは自分にその機会が巡ってくる事はありません。有能な兄李世民に嫉妬していた事もあり、皇太子建成に近づき李世民の事をある事ない事讒言します。

 はじめは信じていなかった皇太子李建成も、あまりに元吉が讒言するため弟世民を疑い始めます。両者の亀裂は次第に大きくなり始めました。

 



 次回、玄武門の変と貞観の治について語りましょう。