鳳山雑記帳はてなブログ

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人類文明の発祥Ⅳ  戦車と馬

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 馬という動物を人類が家畜として飼い始めたのはいつ頃でしょうか?様々な説がありますが、その中でも有力な説は紀元前4000年頃だろうとされます。ウクライナ地方で発見された遺跡で家畜化された馬の痕跡が見つかったそうです。最初、人類は馬を食肉用として飼いました。というのも、当時の馬は現在と違って馬格も小さく人が乗れるような代物ではなかったからです。

 馬がいつ騎乗用となったかは分かりませんが、最初は馬車から始まります。馬格の改良は何世代にもまたがりとても時間がかかりました。当時の人類に遺伝の知識はなかったと思いますが、経験的に馬格の大きい馬同士を掛け合わせ子孫の馬を改良して行ったのでしょう。現在強い競走馬を作るために優秀な種牡馬牝馬を掛け合わせる手法が行われてますが、農耕馬や軍馬でも同じような事が当時なされていたのです。

 ということは、馬車の出現は文明世界とその周辺しかあり得ない事に気付きます。車輪も車軸も手綱(たずな)も轡(くつわ)も冶金技術や木工技術、製革技術が無ければ作れないからです。馬車は4輪ですが、これを2輪にしてできるだけ軽いものにしたら軍用に使えると人類は気付きました。おそらく最初に戦車(チャリオット)を使用し始めたのはシュメールかその後継者のバビロニアではなかったかと思います。メソポタミア地方は、蛮族の侵略を受けやすい地形で、青銅器が必要性に応じて使われたように戦車もまた使用されたのでしょう。

 戦車は、時速40kmくらいまで出せたといいます。歩兵のみの軍隊では太刀打ちできなかったでしょう。戦車には通常御者と1~2名の兵士が乗ります。2頭立て、4頭立てが中心で、戦車に乗る兵士は合成弓(コンポジットボウ)で武装しました。複合材料を使う合成弓もおそらく戦車の普及と同じ頃使われ出します。さらに1名が乗る場合、この兵士は支那では戈(先端がピッケル状になった長柄武器)、オリエント社会では引っかける形状を加えた矛で武装しました。

 戦車の主武器は合成弓で、敵の歩兵部隊を遠巻きにし疾走しながら弓矢で攻撃しました。戦車同士でぶつかる時は、戈や矛などが活躍します。これで並走あるいは逆走しながら敵兵士を引っ掛け落とすのです。落ちた敵兵は、戦車に従っている歩兵部隊にやられました。古代の戦争は、戦車を中心に随伴する歩兵部隊が一つで戦術単位を形成します。

 支那ではこれを乗という単位で表しました。戦車一乗は随伴歩兵が百人つきます。ですから支那古代の歴史を記した春秋で五百乗の軍と書かれていれば五万の兵力だった事になります。天子の事を万乗の君というのも語源はこれです。オリエント世界でもだいたい40名から100名くらい随伴歩兵が付きました。もちろん戦いによっては戦車だけを集めて集中使用する事もあり、その場合は歩兵は離れて続きます。

 メソポタミア、エジプト、インダス、黄河と言った古代文明の軍の主力が戦車一色になっていた頃、その周辺では馬格の改良を重ね人が乗っても大丈夫になった馬に直接乗る者たちが出てきました。といっても、鐙が無い時代ですから、幼少期から馬と一緒に生活し乗り慣れていないといけません。しかし乗り慣れると、馬は時速60kmにも達し戦車よりも機動性が高くなりました。

 彼らは馬と生活を共にし、羊などを養い移動する生活を始めます。これが遊牧民で、世界最初の遊牧民族は南ウクライナに勢力を張ったキンメリア人だと言われます。ただ、私はこれには疑問を持っており最初の遊牧民メソポタミア文明圏の近くイラン高原あたりで生まれたのではないかと睨んでいます。おそらく印欧語族アーリア人が遊牧を学び同じ印欧語族と見られるキンメリア人に伝えたのでしょう。

 その後、ウクライナの地には有名な遊牧騎馬民族スキタイが出現します。遊牧という生活形態は、農耕文明地帯との交流なしでは成立しません。これは平和的な交易であっても戦争や略奪であっても同様です。農耕文明社会はそれだけで生活できますが、遊牧社会は農耕社会の物資なくしては成立しないのです。

 遊牧という生活形態は、ウクライナから天山山脈北麓まで広がるキプチャク草原で暮らす多くの民族が採用し、さらにモンゴル高原や東アジアにも遊牧民族を誕生させました。ただし彼らは南の文明社会との交流を必要とします。一方、文明社会にとっては迷惑この上ない存在となりました。

 歩兵中心の文明社会の軍は、いくら戦車があったとしてもすべて騎乗し機動力に勝る遊牧民族の軍には敵いません。遊牧民族の軍は、敵が強いときは逃げる事ができ、それを文明社会の軍は追撃できません。文明社会の軍が隙を見せると、遊牧民族は容赦なく襲いかかりました。農耕民族と遊牧民族の力関係は、農耕民族がマスケット銃と大砲で武装するまで変わりませんでした。

 農耕民族も、遊牧民族に対抗するため騎兵を養成しますが付け焼刃で通用するはずもなく、まともに戦うには数で圧倒するしかありませんでした。ペルシャ帝国のダレイオス大帝や漢の武帝は、数で遊牧民を圧倒する戦術を採用しますが、これは莫大な国庫負担を生み国家の衰退を招きます。農耕民族にとって遊牧民族というのは本当に厄介な存在だったのです。

 世界史を見てみると、モンゴル帝国のチンギス汗やティムール帝国のティムール、その他の遊牧民族の首長たちが残酷な事に気づかされるでしょう。これは遊牧という生活形態から由来するという説があります。遊牧生活では、多くの家畜を養うため一部の優秀な種馬や優秀な雄羊以外は去勢します。厳しい冬を過ごすため計画的に家畜を殺し生産調整をしました。農耕民族の我々から見ると殺伐とした社会ですが、こういう生活に慣れてくると人間に対しても同様になってきます。ですから不必要な大虐殺でも厭わないし、見せしめなど合理的理由で簡単に殺す事ができるのです。

 宦官という制度も遊牧民由来なのでしょう。日本に去勢が定着しなかったのは、遊牧騎馬民族が国家を揺るがす単位では来なかったという証拠だと思います。


 戦車、のちに馬が中世まで世界を席巻しました。歩兵が優位を取り戻すのは15世紀フス戦争を待たなければなりません。