鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

日本史

阿波戦国史Ⅵ  三好長慶の台頭

三好長慶(1522年~1564年)は、父元長が対立する主君細川晴元にはめられ敗戦の責任を取らされて自害した時わずか10歳。元長の遺児は4人おり、末弟一存は父が死んだときまだ生まれたばかりの幼児でした。 管領細川晴元は、元長排除に利用した一向一揆が手に…

阿波戦国史Ⅴ  京兆家の家督争い

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 応仁の乱の結果、足利将軍は権力を失い形骸化した権威のみ残りました。三管領家でも斯波氏、畠山氏は兄弟一族が東西両陣営に分かれ激しく戦ったため力を無くし守護領国のみを汲々と守るだけの存在に落ちぶれます。三管…

阿波戦国史Ⅳ  両細川の乱

※ 家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 ここで阿波以外の細川氏の歴史を記しましょう。阿波国守護は下屋形阿波細川家が世襲したことは前に書きました。それ以外、讃岐と土佐は奥州家定禅の活躍もあり奥州家の顕氏が讃岐、定禅が土佐の守護となります。他に河…

阿波戦国史Ⅲ  阿波の南北朝

1336年阿波国に入った細川和氏、頼春兄弟は秋月城を中心に吉野川下流域の徳島平野の国人を組織し支配を固めます。徳島県の地図を見ると分かる通り、阿波はこの吉野川流域が中心でここを制圧すればほぼ阿波一国を支配したと同然になりました。 守護小笠原頼清…

阿波戦国史Ⅱ  細川氏の阿波入部

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 細川氏は足利一門です。足利初代義康の曾孫義季が三河国額田郡細川郷(岡崎市細川町)に所領を得て細川氏と称します。同じ足利一門でも、宗家に匹敵する家格を持つ斯波(尾張足利)氏や、武蔵の大豪族畠山重忠の名跡を…

阿波戦国史Ⅰ  鎌倉時代の阿波

慶長検地における四国の石高は伊予国(愛媛県)37万石、土佐国(高知県)10万石、讃岐国(香川県)17万5千石、阿波国(徳島県)18万7千石でした。地形から見ると伊予だけ突出しているように見えますが、伊予は早くから開発が進み山間部にも棚田式の水田が多…

日本人を守るための戦い  根本博と駐蒙軍

大日本帝国陸軍中将根本博、戦史に詳しい方なら名前くらいは聞いたことがあるでしょう。第21軍参謀長、南支方面軍参謀長、第24師団長、第3軍司令官を経て1944年11月より駐蒙軍司令官を拝命、1945年8月19日からは北支方面軍司令官を兼任し復員事業に尽力。戦…

延久蝦夷合戦 青森が日本になった日

※ 盛岡の観光・歴史・文化・人物より 平安時代の歴史、東北日本史に興味のない方はチンプンカンプンだと思うのでスルー推奨です。延久蝦夷合戦とは前九年の役、後三年の役の間に行われた出羽の豪族清原氏による蝦夷・閉伊(これも蝦夷の一種と推定)の異民族…

奥六郡と仙北三郡の生産力

実は、独眼竜政宗にはまってからその興味が東北の歴史に移りまして前九年の役、後三年の役に関する長編を書こうかと思案しているところです。ただ、阿波戦国史、長宗我部三代記など四国ものの予定もありまして、いつになるか分かりません。 その前に歴史シリ…

わんこそばと南部利直

最近独眼竜政宗に影響されて東北戦国話が続きますが、決して政宗を手放しで褒めないのがミソ(笑)。だって知れば知るほど、自業自得の失敗を繰り返しよくこれで一時奥州に覇を唱えられたなと驚くほど。運だけは持っていたんでしょうね。政宗は嫌いではない…

田村顕頼は百歳???

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 前記事岩崎一揆を鎮圧した南部家の宿老北信愛(のぶちか)が当時77歳だったことに驚いたと書きました。信愛は、なんと1613年まで生き91歳で大往生を遂げたそうです。戦国時代には時々このように驚くべき長命の人が出て…

岩崎一揆 伊達政宗と南部信直の代理戦争

1590年豊臣秀吉による奥州仕置き。陸奥の大名南部信直は、かつての家臣津軽為信がいち早く秀吉に謁見し独立大名として本領津軽郡5万石を安堵されたため、それ以外の領土しか安堵されませんでした。参陣が遅れた以上どのような言い訳も無駄だったのです。津軽…

人取橋合戦時の連合軍勢力

ただいま独眼竜政宗にはまっておりまして、1585年人取橋合戦時の反伊達連合軍の勢力について興味を覚えました。そこで私なりに調べたので書き記します。 ◇佐竹義重(1547年~1612年) 反伊達連合軍の盟主。本領は常陸国(現茨城県の大半)奥七郡。と言っても…

伊倉宮の謎

あまりにもマイナーで超ローカルな話題なので、一般の方はスルーしてください。 玉名市史を読んでいて疑問に思ったことがありまして、南北朝時代九州南朝の雄菊池武光が伊倉宮を擁し肥後国内で室町幕府の九州探題今川了俊の軍と戦ったという記述があります。…

天正伊賀の乱

映画「忍びの国」でも話題の天正伊賀の乱。これは天正6年(1578年)から7年にかけての第1次、天正9年(1581年)の第2次と2回にかけて繰り広げられた織田信長と伊賀の惣国一揆との間の戦いです。惣国一揆とは聞きなれない言葉ですが、国内の国人、土豪、地侍…

源平合戦14 幕府成る日(終章)

奥州合戦によって1180年以仁王の乱から始まる治承・寿永の乱所謂源平合戦は終わります。この間、栄華を誇った平家は滅亡し、源氏側でも源三位頼政、木曽義仲、源義経が亡くなりました。鎌倉にあって着々と政権基盤を固めた頼朝が最終的勝利者となったのです。…

源平合戦13 奥州合戦

頼朝が後白河法皇に設置を認めさせた守護・地頭の制度。厳しい言い方ですが、義経が鎌倉政権に対して成した最大の功績が守護・地頭でした。謀反人義経追捕という大義名分で、鎌倉政権は日本全土に守護と地頭を設置します。 守護とは、その国の軍事・警察権を…

源平合戦12 義経最期

壇ノ浦勝利の吉報が鎌倉にもたらされた時、頼朝は亡き父義朝の菩提を弔う法要を営んでいたそうです。非業に倒れた父、自身の二十年の流人生活を思い頼朝は感慨深かったでしょう。しかし感傷に浸ってはいられません。今では鎌倉殿と尊称され天下人となったの…

源平合戦11 平家滅亡

一の谷の戦いの後、鎌倉の頼朝は後白河法皇に対し日本全国の武士の横領・狼藉停止の命令とその実行を頼朝に委託する旨の院宣を出すよう要求します。これは実質的に頼朝が天下人となることと同義ですが、現実に軍事力で京都を制圧している頼朝の要求を法皇は…

源平合戦Ⅹ 一の谷から屋島へ

正五位下斎院次官中原親能。鎌倉軍が1184年1月入京した時、人々は範頼や義経の名を知らず親能が総大将だと勘違いしたそうです。京で長年暮らして事情に明るい親能なくしては院や朝廷との交渉など不可能だったでしょう。範頼や義経はあくまで軍事面での総大将…

源平合戦Ⅸ 粟津に死す

頼朝の派遣した大軍が迫る中、義仲に従う武士たちはどうも義仲の将来が暗そうだと分かり始めます。後白河法皇、後鳥羽天皇を幽閉した暴挙もそうだし、大義名分でも鎌倉軍の方に分がありました。こうなると寄せ集めの悲しさ、次々と逃亡者が出てきます。叔父…

源平合戦Ⅷ 平家の都落ち

最初に富士川合戦以降の平氏政権の動向を記しましょう。1180年12月、清盛は以仁王の乱に関連し平氏政権に反抗的な態度を崩さない南都(奈良)興福寺を焼き討ちします。指揮したのは清盛の五男重衡で、このために興福寺の深い恨みを買いました。もともと平家…

源平合戦Ⅶ 倶梨伽羅峠の戦い

越後城氏は桓武平氏の一族です。清盛などの伊勢平氏とは別流で平貞盛の弟繁盛から始まります。繁盛は常陸平氏の祖で城氏は大掾氏とも近い一族でした。繁盛の嫡男惟茂の子繁成が秋田城介(出羽国司の軍事面での次官)だったことから城氏を称します。子孫は越…

源平合戦Ⅵ 木曽冠者義仲

1180年(治承四年)という年は平氏にとって最悪の年でした。以仁王の乱に始まり、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、富士川の大敗と平氏政権の衰退を窺わせるような出来事が次々と起こります。平氏の棟梁清盛は、反平氏勢力が蠢く京都を嫌い、自分たちの本拠摂…

源平合戦Ⅴ 富士川の戦い

頼朝一行は石橋山の敗戦後なぜ安房国に逃れたのでしょうか?安房国は房総半島の先端で敵が攻めてきても一方を守れば良いというのが理由の一つでしょう。それに安房には頼義以来の源氏の所領もありました。加えて相模国三浦半島一帯を支配する三浦氏は水軍を…

源平合戦Ⅳ 頼朝立つ

大番役というのは平安末期から室町時代初期にかけて地方の武士たちが京都や鎌倉の警護をする役目でした。平安末期の大番役は、朝廷・院・摂関家が対象で任期は3年。すべて武士たちの自弁ですからその負担は大きかったそうです。ただ一方、中央の権門と繋がり…

源平合戦Ⅲ 源三位頼政の死

前記事で近衛基通が出てきたのでここで藤原北家の嫡流五摂家について簡単に記します。保元の乱で関白藤原忠通は、父忠実や弟悪左府頼長が崇徳上皇方に付いたのに対し、後白河天皇方に味方して勝利しました。というより、頼長を溺愛した忠実が忠通に関白職を…

源平合戦Ⅱ 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀

平清盛の正室時子の妹滋子(建春門院)と後白河法皇の間に生まれた高倉天皇。高倉天皇の即位は、藤原摂関家や六条天皇親政派の復活を阻止するために、清盛と後白河法皇の利害が一致した結果でした。 清盛率いる伊勢平氏一門と後白河院政派の微妙な権力バラン…

源平合戦Ⅰ 平清盛の台頭

平安時代末期に起こった保元の乱・平治の乱は貴族政治を終わらせ武士の時代を到来させた戦乱でした。保元・平治の乱に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略を述べるに止めます。 保元の乱(1156年)は極論すると、白河・鳥羽院政によって権力を奪…

源平合戦 序章 大蔵合戦

河内源氏の祖は清和源氏の始祖六孫王源経基の孫頼信です。頼信は父満仲の三男で、長兄は鬼退治で有名な摂津源氏の祖頼光、次兄は大和源氏の祖頼親でした。系図からも分かる通り、本来頼信の子孫が清和源氏の嫡流として約束されていたわけではありません。ち…