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ドイツの戦争Ⅲ  フランス侵攻作戦

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 1939年第2次世界大戦勃発、ポーランド、北欧と戦場は移り次はフランスだと誰もが思っていました。ところがナチスドイツはフランスへの直接侵攻をなかなか実行に移さず、英仏も逆侵攻などまったく考えないようにひたすらドイツ領への空爆を繰り返すのみでした。

 人々はこの状況をさして『いかさま戦争』(Phoney War)と呼びます。しかしそうなった理由はドイツ軍が第1次世界大戦のような泥沼になるのを恐れたからでした。フランス侵攻までの独仏両国の状況を記しましょう。
 まずフランスは、第1次大戦で自国が戦場になり多くの被害を出した反省から巨額の国家予算を費やし独仏国境にマジノ線という要塞ラインを築きます。そのため他の地上部隊と空軍にしわ寄せが行き機動性に欠いた軍隊となっていました。

 実は当時のフランス軍は、戦車にしても戦闘機にしてもドイツ軍より高性能の物を持っていましたがマジノ線に頼り切っていたために機動的に集中運用するという思想がありませんでした。海軍だけはドイツ軍より優勢でしたが独仏戦では海上戦は脇役であまり意味がなかったのです。

 一方、ドイツはというとこちらもマジノ線攻略を苦慮していました。最初参謀本部ヒトラー総統に第1次大戦のシュリーフェン・プランの焼き直しのような作戦案を提出しますがヒトラーは再び泥沼の陣地戦になることを恐れ不満を示します。するとドイツ参謀本部の俊英、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン少将から新しい参戦案が提出されました。

 マンシュタインの作戦計画は、マジノ線が切れているアルデンヌの森林地帯を機甲部隊で突破し戦略的奇襲でフランス軍を圧倒し包囲殲滅するというものでした。当時アルデンヌの森は機甲部隊の突破が不可能だとされ予算に限りがあるフランス軍もここは要塞線の空白地帯にしていたのです。マンシュタインは現地調査で機甲部隊の突破は可能だと判断します。

 マンシュタイン計画は、西部国境に集結させた89個師団を北からB軍集団、A軍集団、C軍集団に分け、まずC軍集団マジノ線フランス軍と対峙。B軍集団はオランダ、ベルギーの低地諸国を席巻。主攻のA軍集団がアルデンヌの森を一気に突破し連合軍の戦線を南北に分断、包囲殲滅するという野心的な作戦です。

 ヒトラーは、この作戦案を気に入ります。そしてこの瞬間フランスの敗北は決定しました。両軍の戦力は、まずドイツ軍が兵員335万、火砲7378門、戦車2445両、航空機5638機。英仏連合軍は兵員330万、火砲13947門、戦車3384両、航空機2935機とほぼ互角。作戦の優越が勝敗を左右するはずです。

 1940年5月10日、北方のB軍集団空挺部隊による奇襲攻撃を多用しロッテルダム爆撃など空陸から激しく攻め立てます。たまらずオランダが5月14日降伏。ベルギーも5月28日には降りました。A軍集団は敵に悟られる事なくアルデンヌの森を突破、予想通りこの方面には英仏軍はほとんど配備されていませんでした。無人の野を行くドイツ軍は、機甲部隊が突破し空中から急降下爆撃機Ju87スツーカが空の砲兵として支援するという理想的電撃戦を演じます。

 フランスは優秀な空軍を持っていましたが、兵力の逐次投入で制空権を奪う事が出来ずなすすべもなく敗れました。A軍集団は、マジノ線方面のフランス軍主力には見向きもせずイギリス海峡方面への突破を最優先します。英仏軍は、A軍集団の急速な進撃で敵中に孤立する事を恐れ英仏海峡方面に撤退しました。

 5月19日、A軍集団の先頭を行く第2装甲師団がついにドーバー海峡に到達。これによりベルギー方面に進出していた英仏連合軍は孤立します。英仏軍はベルギー国境に近いフランス北西の町ダンケルクに追い詰められました。

 このまま攻撃すれば英仏軍の全滅は必至です。ところがここでヒトラーから突然攻撃停止命令が下ります。これには空軍総司令官のゲーリングが「空軍のみで連合軍を撃滅できる」と豪語したという説、あるいはヒトラー自身が貴重な機甲部隊に損害が出る事を恐れたという説など古来さまざま言われています。ただ戦闘の実態を見てみると、機甲部隊が想像を超えて急進撃し過ぎ、補給が追い付かず再編成の必要があったというのが実情みたいです。

 結局貴重な時間を浪費したドイツ軍は、英仏連合軍を取り逃がす事になります。イギリスは本国艦隊の全力を挙げて海路からの撤退を支援しました。この時重い兵器はすべて遺棄し兵士のみを輸送船で救出しますが、その判断は正解でした。兵器はまた生産すれば済みますが、兵士は生まれ変われませんから。この時連合軍将兵34万がイギリスへ脱出に成功します。

 ダンケルク包囲戦が終わり、ドイツ軍は再び進撃を開始します。6月10日フランス政府はパリを無防備都市宣言ボルドーに脱出。同日イタリアがフランスに宣戦布告します。ところが火事場泥棒で美味しいところをさらおうとしたイタリア軍は、アルプスの少数のフランス守備隊に敗北するという醜態をさらしました。6月14日ドイツ軍パリ無血入城。6月21日ペタン元帥を首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み降伏しました。

 世界列強の一角であるフランスがわずか1カ月余りの戦闘で降伏した事は世界に衝撃を与えます。フランス敗北の原因はマジノ線に頼り過ぎた硬直した作戦プラン、国民と軍の戦意不足、それにともなう兵力の逐次投入、分散しほとんど力を発揮できなかった戦車部隊など大国が負ける時はこうなるという見本のようなものでした。そして同時に電撃戦ドクトリンとマンシュタイン計画というドイツの作戦勝ちの面も大きいと思います。

 ただし電撃戦は、フランスのように道路網や鉄道網が網の目状に整備された近代国家でしか成立せずロシアのような泥濘に苦しめられる土地では通用しないドクトリンです。また十分な補給の得られない北アフリカでも同様でした。そしてドイツは得意の機甲戦術を発揮できない戦場へと向かいます。次回は、名将ロンメルの活躍する北アフリカ戦線を描きましょう。