久しぶりの日本史記事ですがあまりにもマイナーだから興味ある方はほとんどいないと思います。
国司信濃、本名国司親相(くにし ちかすけ)。幕末の長州藩家老です。21歳の若さで家老就任、1864年の禁門の変では益田右衛門介、福原越後ら他の家老と共に長州藩兵を率いて上洛、薩摩藩・会津藩を主力とする幕府軍と戦うも大敗、長州に逃げ帰ります。その後、幕府の追及を受けた長州藩では椋梨藤太ら恭順派が実権を握り、国司信濃ら三家老、四参謀を切腹させました。国司信濃は若いころから聡明を謳われ生きていれば維新の元勲として名を残したと思います。その意味では薩摩藩家老小松帯刀と似ていますね。
国司氏はどういうルーツなのだろうと興味を覚えたので調べてみたというのは嘘で、実は太平記で活躍した高師泰(こうのもろやす)の子孫が誰か調べたら偶然発見しました。高師泰は高師直の兄とも弟とも言われる武将で、NHK大河ドラマ『太平記』では兄という解釈でしたね。『太平記』では塩見三省さんが演じていました。
弟師直(太平記では柄本明が演じる)と共に足利幕府の新興勢力を代表し、尊氏の弟直義派と対立、観応の擾乱で敗れ和睦の条件として出家するも、高兄弟に親(養父)を殺された直義派の上杉能憲(うえすぎ よしのり 関東管領山内上杉憲顕の子)らに密かに殺害されました。ここらあたりも大河ドラマ『太平記』で描かれていましたね。
大河では描かれていませんでしたが、実は師泰には子供があり嫡男師世(もろよ)もこのとき同時に殺されました。師世は安芸国高田郡国司荘に所領を得ており、師世の子師武は観応の擾乱後安芸国に逃れ同じ高師直派だった毛利氏の庇護を受けました。子孫は国司氏を称し、毛利氏が戦国大名に成長した後も有力家臣として仕えます。その子孫が国司信濃でした。
高師泰の弟師直の子孫はどうなったか調べたんですが、師直の子には師夏(もろなつ)、師詮(もろあきら)らがいたようです。ところが師夏は観応の擾乱の時一族ともども上杉能憲らに殺害されました。この時13歳だったようで子孫はいなさそうです。
師夏の異母兄弟が師詮ですが、一族とは別行動をしており観応の擾乱後の悲劇は免れました。1352年丹後守護、1353年には但馬守護となっています。具体的年代は分かりませんが同じころ丹波守護にも就任していたようです。1353年5月、山陰の有力守護大名山名時氏が幕府に反乱を起こし南朝勢力と結託し上洛を図ります。師詮は丹波、丹後、但馬の国人を糾合し山名軍と対抗しますが、敗北し自害しました。師詮の享年は分かりませんが、10代後半から20代前半くらいだったみたいです。
師詮の子孫はいた可能性がありますが、子孫に有名になった者はいなさそうなのではっきりしません。もし男子がいたのなら幕府内で何らかの役職に就いたはず。というのも師詮の詮は二代将軍足利義詮から偏諱(へんき)を受けた可能性が高いからです。
高氏の本姓は高階氏。下級貴族ですがおそらく上杉重房が鎌倉時代宗尊親王が鎌倉将軍として下向した時随行したのと同時に鎌倉に来たのでしょう。その後上杉氏は足利氏と婚姻関係を通じて関係を深め、高階氏も高氏と姓を変え足利家に仕えて執事になったのだと思います。下級貴族出身の高氏が、南北朝時代もっとも武断派の武家になっていくんだから歴史は面白いですね。