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ドイツの戦争Ⅸ  ハリコフ機動戦

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 1943年2月、スターリングラードの戦いで敗れたドイツ軍は苦境に立たされました。とくにバクー占領を目指してコーカサス地方の奥深くまで攻め入っていたA軍集団は退路を断たれこのままでは包囲殲滅される危険性が出ます。全滅を防ぐためA軍集団にはすみやかにドン河以西に撤退するよう命じられました。ロシア南部戦線には他にB軍集団、ドン軍集団がありましたが、B軍集団スターリングラードで主力の第6軍が壊滅したため消耗しきっておりソ連軍攻勢の矢面に立たされたのはマンシュタイン元帥のドン軍集団です。

 最初ヒトラースターリングラードを再び占領する無茶な作戦を考えてましたが、独裁者の言うとおりにすれば東部戦線のドイツ軍が崩壊しかねないと強い危惧を抱いたマンシュタインはベルリンへ飛びヒトラーと直談判に及びます。激論の末柔軟な行動の許可を得たマンシュタインは早速作戦を練り始めました。このころソ連軍は、ドン河河口近いロストフまで進軍してA軍集団の退路を断ち包囲殲滅する『星作戦』を開始します。

 マンシュタインは、A軍集団の救出とソ連軍の大攻勢をどう防ぐかで頭を悩ませます。通常、防御作戦は前線に塹壕を掘り、長期にわたる場合はトーチカを築き、要所には対戦車陣地を設け、後方に支援用の砲兵陣地と予備兵力を置いておくというものでした。ところが当時のドイツ軍は、肝心の兵力が足りず頼りの機甲兵力もスターリングラードを巡る戦闘で消耗しきっていました。
 
 マンシュタインは、なけなしの機甲兵力をかき集めると固定した防御線を設けず敵を深く誘いこみ要所で機動的に反撃することで防御しようという考え、所謂機動防御作戦を策定します。その際、重要都市を一時的に敵に渡しても構わないという大胆な決断でした。この機動防御作戦という概念は第2次大戦で出現した新しい防御の考え方で機甲戦力の発達なしでは成立しないものです。マンシュタインは、ソ連軍の補給能力を分析しこれだけの規模の攻勢はいつか兵站が追い付かなくなる。敵の攻勢が限界に達する瞬間(攻勢終末点)に集中して攻撃を掛ければ勝てるという判断でした。

 2月14日、ドン軍集団南方軍集団(二代目)と改称されます。マンシュタインはA軍集団を助けるためソ連軍の側面で限定的攻勢を掛け、敵の関心がこちらに向くと重要都市ハリコフを含む多くの要地を明け渡して後退しました。2月中旬A軍集団は辛くも危機を脱しドン河以西への撤退に成功します。2月下旬、A軍集団に属する第1装甲軍南方軍集団に移管され隷下に第17軍のみを置く事になりました。着々と反撃の準備をしていたマンシュタインは、ソ連軍の攻勢が鈍る瞬間を待ちます。

 1943年2月20日、困難な機動を3週間で終えたマンシュタインは満を持して総反攻作戦を開始しました。撤退を続けるドイツ軍を見て戦力が枯渇していると判断していたソ連軍は、この思わぬ反撃を食らって大混乱に陥ります。補給線が延び切っており急に発生した大規模な戦闘に対応できなかったのです。ドニエプル河近くまで進出していたソ連南西正面軍は北からSS第1装甲軍団、南から第1装甲軍、第4装甲軍に挟撃を受け壊滅的打撃を受けます。南西正面軍に属するポポフ戦車軍、第6軍、第1戦車軍は包囲殲滅され潰走しました。

 そのままドイツ軍は、敗走するソ連軍を追ってハリコフを奪回3月初めにはドネツ川ミウス川の線まで押し戻します。一連の戦闘でソ連軍は遺棄死体2万3千、戦車600両、火砲350門を失いました。まさにドイツ軍の完勝です。マンシュタインはこの功績と対仏戦のマンシュタイン・プラン策定により西側戦史家の間で名将と称えられました。

 この戦いを第3次ハリコフ攻防戦と呼びますが、結果として中央軍集団南方軍集団の前線の間にソ連軍の突出部が出来ました。すぐさま攻撃を加えソ連軍を圧迫するのが理想でしたが、春の泥濘期に突入したため追撃が不可能になります。クルスクを中心としたソ連軍突出部への攻撃は5月以降に予定されました。

 次回、独ソ両軍合わせて6000両という史上空前の大戦車戦が行われたクルスクの戦い「ツィタデレ(城塞)作戦」を描きます。