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ドイツの戦争Ⅹ  ツィタデレ(城塞)作戦

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 第3次ハリコフ攻防戦の結果、中央軍集団南方軍集団の担当区域の境界にソ連軍前線の突出部が残されました。ドイツ軍はクルスクを中心としたこの突出部に目をつけます。独ソ戦開始から2年。ドイツ軍にはすでに全戦線で攻勢をかける力はなく、クルスクの突出部に限定的に奇襲攻撃をかけることでソ連軍を叩き東部戦線の安定化を目指しました。西部戦線で連合軍の大規模攻勢が予測されていたため、それに備えるためです。

 作戦開始は雪解けの泥濘の時期が終わる5月頭くらいが理想的でした。ドイツ陸軍参謀本部は当然その線で準備しますが作戦会議の途中ヒトラーから横槍が入ります。ヒトラーは、現在量産中の新鋭戦車Ⅴ号戦車パンターとⅥ号戦車ティーガーⅠが揃うのを待って攻撃すべきだと主張しました。たしかに一理ある考え方です。

 ところが、実際に現地で作戦を担当する南方軍集団総司令官のマンシュタイン元帥、中央軍集団総司令官クリューゲ元帥から反対意見が出ました。特にマンシュタインは、北アフリカが陥落しヨーロッパ本土への連合軍の上陸が確実視される中、開始を遅らせ時間を浪費しては作戦そのものが成立しないと主張します。装甲兵総監(戦車兵の訓練と装甲車両の生産を担当)のグデーリアン上級大将に至っては、パンター戦車には初期欠陥が露呈しており改修すれば作戦に間に合わないと作戦そのものの中止を訴えました。

 結局、ヒトラーの意見が通り作戦開始は新鋭戦車の前線到着が間に合う7月5日と大幅に遅れます。ところが、ソ連はスパイ網を世界中に張り巡らせておりドイツ軍のクルスクへの攻撃を察知しました。スターリンは、逆に突出部にドイツ軍を誘致して大打撃を与えようと突出部北部に中央正面軍、南部にヴォロネジ正面軍、その後方に戦略予備としてステップ正面軍を集結させ重厚な対戦車陣地(パックフロント)を何重にも巡らせドイツ軍を待ち受けます。

 1943年7月5日、クルスク突出部への攻撃『ツィタデレ(城塞)作戦』が発動しました。突出部北翼の攻撃を担当するのは中央軍集団隷下の第9軍(ヴァルター・モーデル上級大将)、同じく南翼には南方軍集団の第4装甲軍(ホト上級大将)とケンプフ支隊(軍規模)が襲いかかります。

 両軍の兵力はドイツ軍が歩兵80万、戦車・突撃砲2800両、航空機2100機。ソ連軍は歩兵130万、戦車・駆逐戦車3000両、航空機2700機を集結させました。両軍合わせて6000両近い装甲車両がぶつかった史上最大の戦車戦が行われます。5月の段階では奇襲攻撃で成功の可能性も高かったのですが、作戦開始が遅れたため強襲になってしまいました。

 第9軍のモーデルは、「東部戦線の火消し役」とも称えられた機動防御戦術の名手でしたがクルスクの戦いでは十分な機甲兵力を与えられず苦戦します。モーデルは正攻法である歩兵・砲兵・戦車の共同戦闘を選びますがソ連軍の防御陣地は堅陣でわずか10kmほど進撃して止まりました。南翼の第4装甲軍とケンプフ支隊には新鋭のパンターティーガーⅠ、そしてポルシェティーガーの車体を流用した71口径88㎜砲装備の重駆逐戦車エレファントが集中して与えられますが、グデーリアンの危惧通り初期故障が続発し思ったような活躍ができませんでした。

 一方、ソ連軍は85㎜砲にパワーアップしたT-34/85戦車を集中投入します。さらにはT-34の車体を利用したSU-85、SU-100、SU-122などの駆逐戦車(ソ連軍では対戦車自走砲と呼ぶ)も登場したため、ドイツ軍の損害も増え続けます。ドイツ軍は700両の戦車で強行突破をはかりますが、自慢のパンツァーカイル(戦車楔形陣形)も6000門という膨大な対戦車砲を集めたソ連軍のパックフロント(対戦車陣地)を突破できず頓挫、結局戦車・突撃砲230両と兵員1万1千という大きな損害を出しました。

 クルスク突出部を巡る独ソ両軍の戦いは双方に甚大な損害を与えます。さすがにまともに動けばパンターティーガーⅠなどの新鋭戦車はソ連軍戦車を容易に撃破できました。ところが補給能力に限界があるドイツ軍と違ってソ連には米英からの莫大なレンドリースが到着していました。特にアメリカからの軍事援助は優に一戦争できるほどの規模でした。航空機だけで15000機、戦車7000両、そればかりでなく40万台近い輸送トラック、260万トンを超えるガソリンなどの石油製品が与えられます。ソ連T-34戦車シリーズを1945年までに5万両以上生産したといいますが、それは莫大なレンドリースによって兵器以外の生産にリソースを割かずに済んだからでした。

 1943年7月10日、米英連合軍によるハスキー作戦が開始されます。これはシチリア島への上陸作戦でしたが、今後イタリア半島そして大西洋沿岸への米英軍上陸は確実でした。まさにマンシュタインの恐れていた事態です。これを受けてツィタデレ作戦は実質的に中止されます。ドイツ軍は、米英軍の上陸に備えるため東部戦線から虎の子の装甲師団を引き抜き西へ移動させました。以後、東部戦線でドイツ軍が攻勢を取る事は二度とありませんでした。いや敗戦間際の1945年3月、春の目覚め作戦は攻勢作戦とも呼べますがこの時期の戦況は絶望的で無意味な戦力の浪費にしか過ぎなかったと思います。

 1944年6月、ソ連赤軍はパグラチオン作戦という大攻勢を開始しました。膨大な物量に裏打ちされたソ連軍は、初期ドイツ軍を思わせる電撃戦を展開し東部戦線各地でドイツ軍を追い詰めます。この大攻勢で中央軍集団が事実上壊滅、ドイツ軍は開戦前の国境線まで押し戻されました。ソ連軍の目指す先はドイツの首都ベルリン。しかしそれは米英連合軍の目標でもあったのです。

 次回、ノルマンディー上陸作戦を描きます。