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ドイツの戦争Ⅷ  スターリングラード攻防戦

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 1941年11月から翌1942年1月まで続いたモスクワ攻防戦に敗北したドイツ軍は、モスクワ正面のみならず全戦線で後退を余儀なくされました。ところがこれが全面潰走にならなかったのは、ドイツ軍が巧みに後退した事もありましたが、何よりも雪解けの泥濘でソ連軍の追撃が不可能になったからです。

 皮肉な事に、昨年秋の泥濘はドイツ軍の進撃を苦しめ、今度はドイツ軍を助けたのです。北方軍集団は依然としてレニングラードを包囲し続け、中央軍集団はモスクワから120kmほど西のルジェフとヴィヤジマを結ぶ線を死守します。
ヒトラーは長期戦の様相を見せ始めた独ソ戦を有利に戦うため南方軍集団の担当区域での一大攻勢作戦を命じました。ロシア有数の穀倉地帯であるウクライナを完全に掌握しコーカサス地方の一大油田地帯バクーを占領するという雄大な作戦でした。作戦名は『ブラウ(ドイツ語で青)』。

 南方軍集団は、このためA軍集団(リスト元帥)とB軍集団(ヴァイクス上級大将)に編成替えさせられます。主攻のA軍集団には第1装甲軍、第6軍、第17軍が属しコーカサスへの侵攻が命じられました。B軍集団は助攻としてA軍集団の側面を守りコーカサスの入り口でボルガ河とドン河の最も狭まる所に位置する要衝スターリングラード占領が任務です。B軍集団は第4装甲軍、第2軍を隷下部隊とします。

 ブラウ作戦は、1942年6月28日開始されました。スターリンはこの作戦を南方から迂回してのモスクワ攻撃と誤認し対応が遅れます。A軍集団は7月22日にはコーカサスの玄関口とも言えるロストフに達しました。作戦が順調に進んでいる事に気をよくしたヒトラーは、B軍集団から増援を回しバクー占領を急がせようとします。ところがB軍集団の目標であるスターリングラードソ連軍によって要塞化されており、現状でも占領の困難が予想されていました。このため増援の第4装甲軍は右往左往します。

 結局、スターリングラード占領は第4装甲軍(ホト上級大将)とA軍集団から回された第6軍(パウルス大将)が担当する事になりました。この小さな混乱は後に取り返しのつかない事態を招きます。バクーかスターリングラードがどちらかに目標を絞るべきでした。8月23日ドン河に橋頭保を築いたドイツ第6軍はボルガ河に達しスターリングラードの北側を封鎖します。スターリングラード攻防戦の始まりです。

 第4装甲軍は南から攻撃し、スターリングラード包囲の形ができます。市街を守るソ連第64軍は死守の構えでした。この時スターリングラードには後に中央委員会第一書記兼首相として最高権力を握るニキータ・フルシチョフが政治委員として督戦していました。

 ソ連軍は全市街を要塞化し、市街戦で徹底抗戦をもくろんでいましたから、歩兵部隊が主力である第6軍が市内に突入します。これは機甲部隊では市街戦の役に立たないからです。戦いは1メートルを争う凄惨なものとなりました。廃墟のあちこちに狙撃兵が隠れ、地下道を使っての奇襲も多用されます。苦しい戦いを続ける第6軍ですが、ソ連軍をボルガ河沿いの一角に追い詰める事に成功しました。

 ソ連側としてはスターリンの名を持つ都市を敵に奪われるわけにはいきません。南西戦線正面軍、ドン戦線正面軍、スターリングラード戦線正面軍と3つの大部隊を送り込み救援に向かいます。実はドイツ軍は自軍だけでは数が足りず、イタリア軍ルーマニア軍など同盟国の軍を補助部隊として同行させていました。戦線を維持するためこの時もルーマニア第3軍がスターリングラード北西の守りについています。

 ソ連軍は、脆弱なルーマニア軍の陣地に目をつけます。総攻撃を加えたソ連軍は、弱体のルーマニア軍を蹴散らし大きく左に(南東に)旋回しました。同時に南方ではソ連第51軍と第57軍が攻勢を開始し北上します。これによりドイツ第6軍と第4装甲軍の一部はスターリングラードに取り残されました。ドイツ軍は、マンシュタイン元帥がドン軍集団を編成し救出を試みますがソ連軍の防御陣のまえに失敗します。

 第6軍は、ドイツ空軍の空からの細々とした補給に頼らざるを得なくなりました。ヒトラーパウルスに死守を命じます。そればかりか彼を元帥に昇進させました。ヒトラーによると「元帥が降伏した例はない」ということだそうです。しかし孤立したドイツ軍にとっては無意味な昇進より弾薬と燃料、食料の方が必要です。火の出るような催促にもドイツ空軍の貧弱な輸送力では応えることができませんでした。

 ソ連軍の重包囲下に陥った第6軍は、ついに燃料弾薬が枯渇します。パウルスはエリート参謀出身で秀才でしたが精神が弱い人物だったと伝えられます。結局彼は降伏を選択しました。1943年1月31日の出来事です。この時24万ものドイツ兵が捕虜になったそうです。スターリングラード戦の敗北で、コーカサス奥深く侵攻していたA軍集団は退路を断たれる危険性が出てきました。絶体絶命の危機です。

 ドイツ軍はこの危機をどのように脱するのでしょうか?それはマンシュタインの頭脳にかかっていました。「後の先」と称された彼の機動防御作戦は後に軍事学の教科書となります。次回、ハリコフ機動戦を描きます。