バルバロッサ(赤髭)とは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサのこと。ボヘミアとハンガリーを神聖ローマ帝国の影響下に置いた事から、同じスラブ民族への戦いとしてふさわしいと見られ作戦名となりました。
もともとヒトラーもスターリンも独ソ不可侵条約を結んでいながら、疑心暗鬼で敵が先制攻撃するのではないかという恐怖心を持っていました。案外知られていない事ですがスターリンもまた1943年頃にはドイツへの侵攻を計画していたと言われます。ヒトラーの方が先んじたというだけ。全体主義と共産主義は所詮に相容れない存在でした。
ヒトラーの場合は、アーリア人優越主義からソ連を含む東方はアーリア人の生存圏であり支配する権利があるという歪んだ考えもソ連侵攻を決めた理由です。本来ならバルバロッサ作戦は少なくとも2カ月前に発動する予定でした。ところが同盟国イタリアが、ギリシャに手を出ししかも敗退したためドイツはバルカン半島に介入せざるを得なくなります。連合軍がドイツの腹背であるバルカン半島に進出する事は、ハンガリーとルーマニアの油田に頼っているドイツの戦争遂行上も危険でした。
ヒトラーの本音としてはハンガリーにもルーマニアにも中立を保ってもらって石油だけ輸出してもらうのがベストだったと思います。しかしこれらは枢軸国に参加し、イタリアまでがギリシャで大失敗したとなるとドイツ軍が直接出ていくしかなかったのです。バルカン作戦は1940年9月から1941年5月まで続きます。ドイツは何とかバルカン半島から連合軍を叩きだす事に成功しますが、そのために貴重な時間を空費しました。もし独ソ戦開始が2カ月早かったらモスクワ攻略は成功していた可能性が高いと思います。冬将軍が来る前にモスクワ前面に到達できたでしょうから。その意味では皮肉な見方ですがソ連はイタリアに感謝しなければいけませんね。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦発動。ドイツ軍は146個師団300万の兵力を北から北方軍集団(レープ元帥)、中央軍集団(ボック元帥)、南方軍集団(ルントシュテット元帥)の3つの軍集団に分けソ連に襲いかかります。装甲戦闘車両3580両、輸送車両60万両、各種火砲7184門、馬匹75万頭、航空機1800機という巨大な戦力でした。
スターリンは、この時独ソ不可侵条約を過信しすっかり油断していました。兵力的にはドイツ軍より多かったのですが、有効な防御命令を出しておらず完全に奇襲となります。ドイツ軍は北方軍集団がレニングラードを目標とし、中央軍集団はモスクワを目指しました。南方軍集団はウクライナの重要都市キエフ攻略から戦争遂行に欠かせないバクーの石油獲得を目指しコーカサス地方に到達する予定です。
防衛戦の準備をしていなかったソ連軍は、機動力で上回るドイツ軍に圧倒され各地で孤立、包囲殲滅されていきます。中央軍集団は早くも6月28日には白ロシア(現在のベラルーシ)の首都ミンスクを包囲しました。北方軍集団も9月30日レニングラード郊外に到着します。南方軍集団だけは、ソ連がウクライナの穀倉地帯とその背後のコーカサスの石油を守るため重厚な防衛陣を布いておりやや苦戦しました。
中央軍集団から派遣された第2装甲集団(後の第2装甲軍、グデーリアン上級大将)は、南下し南方軍集団のキエフ包囲作戦に参加します。キエフ方面には南方軍集団隷下の第1装甲集団(クライスト上級大将)がおり、一時的にこの方面に対ソ投入兵力半数の機甲部隊が集結します。ソ連軍は50個師団がキエフ包囲網の中に取り残されました。南方軍集団は9月26日総攻撃を開始し、激戦の末捕虜66万5千名、捕獲戦車800両以上という空前の戦果を上げて勝利します。
北方軍集団は、レニングラードを包囲するもののラドガ湖があるために完全に包囲できず、逆にソ連側はラドガ湖を使ってレニングラードの補給線を維持しました。この方面は膠着します。南方軍集団はキエフ攻略後クリミア半島に進出、対仏戦の作戦案を提出したマンシュタイン上級大将(第11軍司令官)がここでも活躍し、空前の重砲を大集結させ難攻不落と言われたセバストポリ要塞攻略に成功しました。マンシュタインはこの功績により元帥に昇進します。
後はソ連の首都で政治軍事の中枢であるモスクワを攻略するだけです。これは中央軍集団の役目でした。ところが季節はすでに10月に入っていました。この年の冬は例年より早く来たといいます。本格的な冬の到来の前は長雨が続き、地面は泥濘に覆われました。快進撃を続けるドイツ軍はここで進撃のスピードが緩みます。首都モスクワを守るためソ連軍の抵抗も激しさを増してきました。
独ソ戦の帰趨はドイツ軍がモスクワを攻略できるかどうかにかかっていました。次回、モスクワを巡る独ソ両軍の戦い『タイフーン作戦』を描きます。