ノルマンディー上陸作戦以来、米英連合軍は着実に兵力を拡大し続けます。1944年8月の段階では、連合軍総司令官のアイゼンハワー元帥の下に米軍で編成された第12軍集団をブラッドレー大将が率い、英連邦軍中心の第21軍集団をモントゴメリー元帥が指揮しました。
最初モントゴメリーは連合軍総司令官の地位を要求したそうですがアメリカから拒否されアイゼンハワーが就任します。怒ったモントゴメリーはチャーチルに元帥昇進を求めました。当時大将だったアイゼンハワーも階級が上の自分には命令できないだろうという読みです。アメリカは、すぐさまバランスを取るためにアイゼンハワーを元帥に昇進させます。
兵力的にも米軍の第12軍集団は隷下に4個軍(第1、第3、第7、第15)、12個軍団、48個師団を持っていました。米陸軍の師団は大規模編成で兵士数も多く(1個師団2万以上)総兵力は130万を超えます。これをブラッドレー大将が率いるのですが、現在に至るまで一人の指揮官が指揮する部隊としては米軍史上最大規模だったそうです。一方、英陸軍(第21軍集団)は英連邦の部隊を含めても70万ほどで、モントゴメリーが連合軍総司令官になるのはもともと無理筋な要求でした。
制海権は言うまでもなく、制空権も連合軍が有しドイツ軍は物量で押しまくられます。地上ではⅤ戦車パンター、Ⅵ号戦車ティーガーⅠ、そして71口径88㎜砲という第2次大戦中最強の戦車砲を装備したⅥ号戦車ティーガーⅡまで登場しましたが、個々の兵器では優れていてももはやそれだけでは戦局を挽回できない状況まで追い込まれていました。空軍に関してはさらに絶望的で、空の要塞ボーイングB-17重爆撃機、リパブリックP-47サンダーボルト重戦闘機、ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機など機体の能力でドイツ機を上回る高性能機の前には、メッサーシュミットMe109G型やフォッケウルフFw190A型、Fw190D型を持ってしても劣勢を強いられます。
このままベルリンまで一気に押しまくられるのも時間の問題だと考えられていました。ところが、連合軍の進撃があまりにも急だったため独仏国境に戦線が近付くと補給が滞るようになってきます。逆にドイツ軍は補給線が短くなり楽になってきました。
ヒトラーが連合軍に一撃を加え戦局を一気に挽回しようと考えたのは1944年9月頃だったとされます。ヒトラーは大戦初期に大成功したアルデンヌの森を攻勢の起点とし連合軍の重要な補給港であるアントワープまで進撃し連合軍の補給を危機に陥らせようと考えます。その戦果をもって米英と講和しようという虫のよい考えもありました。
ところが、あまりにもギャンブルに過ぎるということで参謀本部はもとより現場の西方総監部、B軍集団も大反対します。ヒトラーが攻勢に使おうとした兵力はドイツ軍の戦略予備でこれを失ったら防衛計画自体が破綻するというのが反対の理由でした。ヒトラーの頭の中にはロンメル元帥の指揮能力に期待するところがあったのでしょうが、肝心のロンメルは1944年7月に連合軍の航空攻撃で負傷しドイツ本国で療養中でした。
1944年10月にはヒトラー暗殺未遂事件が勃発します。疑心暗鬼に駆られたヒトラーは、暗殺計画に関与したとロンメルまで疑い逮捕しました。実際のところロンメルは事件には無関係だったと言われますが、暗殺グループがヒトラー暗殺後の政府首班に国民的人気の高いロンメルを想定していた事から言い逃れは不可能でした。結局、ロンメルは自殺を強要されます。
空席になったB軍集団司令官には東部戦線からヴァルター・モーデル元帥が任命されました。着任したモーデルもまたヒトラーの構想に大反対します。モーデルは、アントワープまで進撃せずアルデンヌ近辺で限定的に攻勢を行い戦線を整理して防衛しやすくするという現実的作戦案を提示しますが、希望的観測に燃えるヒトラーは当然拒否し、アルデンヌ攻勢は決定しました。ドイツ軍はこの作戦を『ラインの守り作戦』と名付けますが、連合軍はドイツ軍の攻勢が突出部(バルジ)を形成したため『バルジの戦い』と呼びます。
作戦計画は、北からSS第6装甲軍(デートリッヒ上級大将)、第5装甲軍(マントイフェル大将)、第7軍(ブランデンベルガー大将)が並び、SS第6装甲軍(装甲師団4個、歩兵師団5個)がアルデンヌ高地北方を進撃しアントワープを占領、第5装甲軍(装甲師団3個、歩兵師団4個)はアルデンヌ高地南部を進んでブリュッセルを目指す。第7軍(歩兵師団3個、降下猟兵師団1個)は側面支援に当たるというものでした。総兵力35万。
当時連合軍はアルデンヌ地方にはドイツ軍の本格攻勢はないと判断し戦闘で消耗した師団の休養地に充てていました。作戦開始予定の12月は、天候も曇りが多く降雪もあり連合軍自慢の空軍が活躍できないという読みもありました。
1944年12月16日早朝、2000門の野砲の砲撃を合図にヒトラーのラストギャンブル『ラインの守り作戦』が発動されます。すっかり油断していた米第1軍の将兵は、あらかじめドイツ軍の特殊部隊によって通信が寸断されていた事もあり大混乱に陥ります。ところがフランス軍と違っていたのは、困難な状況でも潰走したりせず独自の判断で防衛戦を開始した事です。
とくに第101空挺師団などはバストーニュに籠城し、包囲されても降伏を拒否し最後まで守り通します。SS第6装甲軍は、先鋒としてSS第1装甲師団のパイパー・カンプグルッぺ(戦闘団)を投入します。これはヨアヒム・パイパーSS中佐が指揮し通常の装甲連隊の他に独立重戦車大隊、装甲擲弾兵大隊、装甲工兵大隊を加えた諸兵科連合部隊で強力な突進力を持っていました。それをもってしてもエルゼンボルン丘陵で米第2師団、第99師団に防がれ進撃がストップしてしまいます。
もっとも進撃が成功したのは第5装甲軍マントイフェル大将の担当区域でしたが、ムーズ川沿いのナミュールにはとうとう到達できませんでした。ちなみにマントイフェルは史上最年少47歳で大将に昇進した有能な指揮官で、戦後は政界に進出し連邦議会議員にまでなっているユニークな存在です。その彼でもここまでが限界でした。
そのうち、12月23日天候が回復しドイツ軍の恐れていた連合軍のヤ―ボ(戦闘爆撃機)が出撃して来ました。連合軍はドイツ軍の補給拠点を中心に空爆します。12月26日にはバルジの南方にいたパットン中将の第3軍が救援に駆けつけました。第3軍の先鋒第4機甲師団の到着で勝負あります。第4機甲師団はバストーニュの友軍を救出。1945年1月1日になってもドイツ軍はなお粘り強く戦い続けますが、空爆が激しくなるにつれ燃料弾薬が枯渇しこれ以上の戦闘継続が不可能になりました。
1月13日、ドイツ軍はついに撤退を決断します。作戦終了は1月27日。この戦いにおける米軍の損害は死者・負傷者・行方不明者合わせて7万5千名。一方ドイツ軍は6万8千名の損害を受けます。この結果だけを見れば互角ですが、最後の戦略予備部隊を消耗したドイツ軍に対し連合軍の損害は回復可能なものでした。
バルジの戦いは、ドイツの敗北に拍車をかけます。ヒトラーは最後の賭けに負けたのです。現実的に万が一アントワープを占領できたとしても維持はできなかったと思います。それだけの兵力がありませんでした。東部戦線では1月17日ワルシャワが陥落します。東西から挟み撃ちにされたドイツの敗北は時間の問題でした。
次回、ドイツの戦争最終回『ベルリン攻防戦』に御期待下さい。