鳳山雑記帳はてなブログ

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古代西洋世界の陣形研究(2)

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◇前回の続きです。
ぅイロネイアの戦いBC338
 アレキサンドロス大王のマケドニア王国といえば、ギリシャ北部に位置する、一大軍事大国というイメージがあります。しかし、アレキサンドロスの父フィリッポスが登場するまで、隣国に侵略され放題の弱小国だったのです。
 マケドニアギリシャの諸ポリスからバルバロイ(野蛮人)と蔑まれる国でした。文化も遅れ、ポリスと呼ばれる都市国家も発展しない領域国家でした。隣国イリュリアの侵略、カルモディケー半島のギリシャ人ポリス、オリュントスにも首都ぺラを占領され、フィリッポスの父アミュンタス3世は暗殺、一時簒奪者に国を奪われる始末でした。混乱の中即位したベルディカス3世は、当時日の出の勢いのテーベに援助をもとめ、弟フィリッポスを人質として差し出します。テーベにはエパミノンダスやペロピダスといった有能な指導者がいました。フィリッポス少年はここで政治の仕方や斜線陣のような軍事知識を学んだことでしょう。
 3年の人質生活から帰国したフィリッポスに重大な試練が待ち受けます。兄ベルディカス3世がイリュリア遠征で戦死してしまうのです。
 23歳でフィリッポス2世として即位した彼は、しかしあわてませんでした。まず、混乱した国内を統一し内政に専念しました。軍事面でもテーベで学んだ斜線陣を自国に合うように発展、改良しました。
 力を蓄えたフィリッポスは、国内に侵入していたイリュリア人を国外に叩きだす事に成功します。次に鉱物資源豊富なカルモディケー半島に進出、宿敵オリュントスを下します。
 こうしたマケドニアの発展をギリシャの諸ポリスは快く思いませんでした。弁論家のデモステネスの提唱でアテネとテーベが同盟します。テッサリア地方に侵入したフィリッポスに対し、アテネ・テーベ連合軍3万5千が立ち上がります。フィリッポスは3万2千の兵力を集めました。かっての弱小国がアテネ・テーベというギリシャ世界の超大国と互角の力を持つまでになったのです。
 決戦の地はカイロネイア。連合軍は中央に同盟軍のファランクス横陣。左翼にアテネ軍、右翼にテーベ軍。最右翼にテーベの最精鋭部隊神聖隊を配しました。一方、マケドニア軍は中央にサリッサと呼ばれる6メートルもの長槍を装備した重装歩兵(ぺゼタイロイ)のマケドニアファランクス、左翼に息子アレキサンドロス率いる重装騎兵(ヘタイロイ)。フィリッポス自身はヒュパスピスタイと呼ばれるペゼタイロイよりは軽装の機動力のある歩兵(老親衛隊と訳されることが多い)を率いて右翼に位置しました。
 「ハンマーと金床」と呼ばれる戦術はこのとき完成していました。すなわち、斜線陣は敵が自分と同等の機動力を持っている場合しか通用しません。機動力によって回り込まれるからです。では、汎用性を持つためにはどうすればよいか?フィリッポスは衝撃力を、サリッサを装備し三角形の陣形で敵陣へ錐のように突っ込むヘタイロイ(重装騎兵)に求めました。それまで戦列を維持するのはぺゼタイロイの役目です。金床にあたるぺゼタイロイが戦列を維持している間に、敵の弱点をみつけたヘタイロイがハンマーで打ち砕く。ヒュパスピスタイはその間に入って両者が孤立しないように柔軟な接着剤の役目をはたす。これが世に言う「ハンマーと金床」戦術でした。
 カイロネイアの戦いの推移もそのとおりになりました。
 フィリッポスは、右翼のヒュパスピスタイを敵左翼のアテネ軍に向わせ、わざと後退しました。自軍優勢と見たアテネ軍はヒュパスピスタイの後退にあわせて、自軍を前進させます。それに引きずられて中央の同盟軍、右翼のテーべ軍も続きました。そして最右翼の神聖隊との間に致命的な間隙を作ってしまったのです。
 戦列のバックボーンであるペゼタイロイはびくともしません。決戦兵種、ヘタイロイを率いたアレキサンドロスはこの隙を見逃しませんでした。その間隙に突撃し神聖隊を粉砕すると、そのまま側面から背後にまわりテーベ軍に襲い掛かります。同時に後退していた右翼ヒュパスピスタイも前進を始めます。ファランクスの弱点は側面と背後だと前に書きました。マケドニア騎兵はまさにその弱点をついたのです。
 浮き足立った連合軍に勝ち目はありません。両翼のアテネ・テーベ軍が崩れ去ると中央の同盟軍はなすすべもなく敗走します。
 カイロネイアの戦いは、時代がギリシャからマケドニアに移った決定的瞬間でした。