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アレクサンドロス戦記②   - イッソスの戦い BC333年 -

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 メムノンの脅威がなくなるとマケドニア軍はアケメネス朝ペルシャの心臓部へ向けて進軍します。アナトリア高原の中央部カッパドキアから東南の地中海沿岸地方キリキアへ抜ける「キリキア門」と呼ばれる山間の隘路をぬけるとシリアへなだれ込みました。


 ここで疑問なのはなぜペルシャ側がキリキア門で迎え撃たなかったかということです。キリキア門でマケドニア軍を拘束している間に優勢な海軍を使ってマケドニア軍の補給を完全に断ち、背後から上陸して挟み撃ちする、など戦術の幅は広がります。メムノンのような戦争を大局的に捉えることのできる将帥の欠如を物語っているのかもしれません。



 ダレイオス3世率いるペルシャの大軍が現れたのは、マケドニア軍がシリアへの入り口であるベイラン峠にたどり着いた直後でした。ペルシャ軍は東北からシリア地方に入ったため、奇しくもマケドニア軍の背後を遮断した形にはなりました。急いで地中海岸の道を引き返したマケドニア軍は、ペルシャ軍が地中海に山が迫るイッソスの地に布陣しているのを確認します。時に紀元前333年10月。



 マケドニア軍の兵力は緒戦からほぼ増減なしの重装歩兵ペゼタイロイ2万2千、精鋭ヒュタスピスタイを含む軽装歩兵1万3千、打撃部隊である重装騎兵ヘタイロイを主力とする騎兵6千で計4万1千。

 一方ペルシャ軍の兵力は60万との資料もありますがこれは誇張でしょう。古代においてそんな大軍があったら補給で自滅してしまいます。妥当な線で騎兵3万、歩兵10万くらいでしょうか?




 マケドニア軍の布陣はいつもの通り中央に左ペゼタイロイ、右ヒュパスピスタイの歩兵部隊を配し、左翼にテッサリア騎兵、右翼にアレクサンドロス大王直率のヘタイロイ騎兵部隊でした。左翼と中央の歩兵部隊は副将パルメニオンが率いました。両翼の騎兵で敵を包囲して追い込み中央のファランクスで粉砕するという、所謂「ハンマーと金床」戦術を意図した陣形です。


 ペルシャ軍は、マケドニア軍に包囲されてはたまらないとばかり騎兵戦力のほとんどを海岸よりの右翼に配します。戦場中央を流れるピナロス川を押し渡らせて騎兵の一部と軽装歩兵3万余りをマケドニア軍右翼に当たらせるように側面に向けて左翼に広げました。このためにアレクサンドロスは一部の騎兵を割いて側面の敵軍を警戒させなければなりませんでした。


 ペルシャ軍中央にはダレイオス3世直率の戦車部隊、近衛騎兵、重装歩兵部隊が陣取りました。頼みのギリシャ人傭兵隊のファランクス(長槍密集歩兵陣)3万は右翼の騎兵の背後に控え、騎兵の渡河に続いて河を渡りマケドニア軍の左翼から戦列を崩す作戦です。



 戦場を眺めたアレクサンドロスは、どうもダレイオスに積極性が足らないように見受けました。自分から仕掛けるのでなく、マケドニア軍の攻撃開始を待っているように感じられたのです。


 アレクサンドロスは、ペルシャ軍左翼に渡河した側面部隊との間で致命的な間隙を発見し迷わず自らの馬を川に乗り入れました。ヘタイロイ部隊もこれに続きます。さすがにグラニコス河と違いこのときはペルシャ側から矢による妨害を受けましたが、遮二無二河を押し渡り対岸に着くとすぐさま敵の歩兵部隊を蹴散らし始めました。


 一方、マケドニア軍左翼は優勢な敵騎兵の渡河を受けて危機に陥ります。パルメニオンは必死の防戦でこれを防ぎました。戦いの帰趨は、パルメニオンが左翼を支えている間に、右翼のアレクサンドロスが敵左翼を崩せるかどうかにかかってきました。




 アレクサンドロスは、味方歩兵の渡河を成功させるまで獅子奮迅の働きをします。こうして無事に味方歩兵が渡河し橋頭保を築くと、歩騎合同で敵左翼に攻撃をさらに激しくしました。


 精鋭歩兵部隊ヒュパスピスタイの活躍もありペルシャ軍左翼は次第に崩れ始めました。が、このときパルメニオン指揮下のマケドニア軍左翼も危機に陥っていました。急報を受けたアレクサンドロスでしたがどうすることもできません。自軍左翼の危機を救うには敵中央を攻撃して、騎兵の大軍を引き揚げさせるしかありませんでした。


 激戦が続く中、信じられないことが起こります。ほとんど戦闘に加わっていなかったダレイオスの近衛隊が王を囲んで撤退し始めたのです。戦いはまだどっちに転ぶか分からない状況でした。


 もう少し粘っていれば、数に勝るペルシャ軍が押し切る可能性も高かったのです。どうもペルシャ軍全体に戦意の低さがあったような気がしてなりません。ダレイオスもあまりにもあっさりしすぎていました。戦いの帰趨を決めたのは両軍の戦意の差だったようです。


 王が戦場から撤退したため、善戦していた右翼の騎兵も引き上げに入ります。大軍だけにしだいに混乱をきたし始め、それが潰走に変わるのに時間はかかりませんでした。



 マケドニア軍左翼のテッサリア騎兵は、これを追って渡河、追撃戦に入ります。マケドニア全軍が川を渡り終えた時戦場に残っていたのはギリシャ人傭兵隊だけでした。アレクサンドロスは、最も警戒すべき傭兵部隊を無傷で逃すつもりはありません。包み込むように攻撃を加えこれを殲滅させました。



 マケドニア軍は、敵を追撃して大きな戦果を得ます。ダレイオスの宿営地を押さえたアレクサンドロスは、莫大な財宝がそこに残されているのを発見しました。しかもダレイオスの妻と娘たちまでもが逃げ遅れて捕まります。いかにペルシャ軍があわてていたかの証拠です。


 アレクサンドロスは、戦闘での被害もあり軍をここで留めました。後世の史家は、アレクサンドロスがダレイオスの妻女に酷いことをせず、王家の一族として大切に扱ったことを褒めています。ダレイオスも逃亡先でこれを伝え聞き、感謝したそうです。



 実質的にイッソスの勝利こそが、東征の成功を決定づけたと言っても過言ではないでしょう。いまだペルシャメソポタミア以東を確保していましたが、この戦いの結果シリアからエジプトにかけての地はことごとくアレクサンドロスに服属することになるのです。

 しかもフェニキア海軍が味方に付いたため、あれだけ苦しめられたペルシャから地中海の制海権を奪い返しました。エーゲ海の島々を占領していたペルシャ軍は、敗報を受け降伏するか、フェニキアマケドニア連合艦隊に敗れ壊滅します。


 アレクサンドロスは、ペルシャ本土への侵攻を前に背後を固めるため、エジプト遠征を企てます。しかしこれに唯一反抗した都市がありました。それはフェニキアの有力都市、ティルスでした。


 次回は7カ月にも渡った攻囲戦、ティルス攻防戦について記します。