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アエミリウス・パウルスとピュドナの戦い(後編)

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 アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が作った『ハンマーと金床戦術』。サリッサと呼ばれる5mもの長さの槍で武装した重装歩兵ペゼタイロイのマケドニアファランクス(密集歩兵陣)を金床として敵部隊を拘束し、両翼の重装騎兵ヘタイロイがハンマーとなって側面から敵部隊に襲い掛かり殲滅するという戦術です。これはフィリッポス2世が幼少期人質生活を送っていたテーベでエパミノンダスの斜線陣を参考に独自に創意工夫を加えたものでした。エパミノンダスの斜線陣では敵部隊を粉砕する役目を50列もの極端に縦深が深い左翼の戦列に任せたのですが、『ハンマーと金床戦術』ではより機動力の高い重装騎兵にその役割を負わせたのです。

 

 ただ、軍事知識がある方ならお気づきでしょうが、この戦術の最大の欠点は攻勢に出る際ファランクスと重装騎兵の間に致命的な間隙が出来かねない事でした。敵に優秀な指揮官がいれば、この隙を見逃さず騎兵を投入してファランクスと重装騎兵部隊を分断、ファランクスの背後に回り攻撃を加えるでしょう。マケドニア軍のファランクスは、他のギリシャ諸国のそれよりは機動力があったと言われますが、騎兵と比べれば相手になりません。

 

 フィリッポス2世も、その弱点はとうに承知していました。彼はペゼタイロイと同じサリッサで武装していながら、より軽装のヒュパスピスタイという兵種を導入します。軽装歩兵ヒュパスピスタイはファランクスと重装歩兵の間隙を埋める役割を与えられ、両者を結ぶ接着剤のように広く展開することもできれば、総攻撃の際には機動力を生かして攻勢の中心になることもありました。いわば、ハンマーと金床戦術の要です。実はヒュパスピスタイの重要性を日本でおそらく初めて指摘したのは元陸上自衛隊幹部で退役後軍事研究家をされた故・松村劭(つとむ)氏でした。一般の歴史学者では絶対に気付かないところですが、軍事知識があったおかげで気付けたのでしょう。西洋の場合は、軍事知識が常識なので歴史学者でもまともなのです。

 

 ハンマーと金床戦術は、フィリッポス2世やその息子アレクサンドロス大王のような有能な指揮官でなければその威力を十分発揮できませんでした。将軍たちが大王の遺領を奪い合ったディアドコイ戦争では、すでにハンマーと金床の精緻な戦術は忘れ去られ、平押し一辺倒でペゼタイロイのマケドニアン・ファランクスが決戦兵種になるほど退化します。ハンマーと金床戦術ではありえない戦象を用いたのも彼らでした。

 

 さて、ギリシャ西岸に上陸したパウルスは、まずマケドニアの圧政下にあったギリシャ諸都市を解放、その上でマケドニア国境に迫ります。解せないのはペルセウスの行動で、ローマ軍が国境に迫るまで何もせずじっとしていました。ローマ軍が上陸するところを攻撃したり、行軍中を要撃するなどいくらでも選択肢はあったはず。凡庸なペルセウスは、臆して何もできなかったというのが実態だったのかもしれません。

 

 オリンポス山麓を行軍中、ローマ軍は飲料水の不足に悩まされました。パウルスは周囲の地形を見て山麓の森の青々としているところに水脈ありと判断しそこを掘らせます。するときれいな水が湧きだし兵士の喉を潤しました。パウルスの長年の戦場経験の賜物です。国境が近づいてもパウルスはなかなか軍を進めませんでした。斥候を放ち周囲の地形を把握すると、マケドニア軍の背後に回れる間道を発見します。腹心のスキピオ・ナシカ(スキピオ・アフリカヌスの娘婿)を呼ぶと、間道を伝って行軍するよう命じました。スキピオ・ナシカは8千の兵を率いて出発します。この中にはパウルスの長男でファビウス家に養子に入ったファビウス・マクシムスも加わりました。

 

 奇襲部隊は順調に行軍します。ペルセウスは、正面のローマ軍に動きがないのですっかり油断していました。ところがローマ軍に加わっていたクレーテ(クレタ?)人の脱走兵がマケドニアの陣営に駆け込み奇襲部隊の事を密告します。慌てたペルセウスは、急ぎ外国人傭兵1万人とマケドニア兵2千を送りました。奇襲部隊を指揮するスキピオ・ナシカも何の抵抗もなく行軍できるとは思っていませんでした。その覚悟の違いが勝敗を分けます。激戦の末マケドニア軍を破ったローマの奇襲部隊はマケドニアの本隊を脅かす位置に出現しました。

 

 驚いたペルセウスは、急ぎ陣を下げさせ平坦な地形でファランクスの威力が十分に発揮できるピュドナでローマ軍を待ち構えます。パウルスは堂々を軍をすすめマケドニア軍と対峙しました。戦いは紀元前168年6月22日に起こります。マケドニア軍は両翼に騎兵を従えながら自慢の重装歩兵ペゼタイロイによるマケドニアン・ファランクスを前面に押し出し粛々と行軍します。コホルス(歩兵大隊)を中心とする柔軟な用兵が強みのローマ軍ですら、かつて欧亜世界を席巻したマケドニア軍は難敵でした。中央に歩兵、両翼に騎兵を配したローマ軍ですが戦いはローマ軍が一方的に押しまくられ崩壊寸前まで追い込まれます。

 

 その時百人隊長の一人が味方から軍旗を奪い取り敵陣に投げ込みました。軍旗を敵に奪われるのは負けることより屈辱でした。ローマ兵たちは驚くべき蛮勇を発揮し、軍旗を取り戻すべく敵の槍衾の中に飛び込みます。しかし、これすらも一時的に敵軍の動きを止めたにすぎませんでした。

 

 ピュドナの地は平坦とはいってもオリンポス山の裾野に連なり、緩やかな起伏が点在する地です。密集体形を取るファランクスにもこの時いくつかの間隙が生じます。パウルスはこれを見逃しませんでした。予備部隊を呼び寄せると、この隙間に突入させます。ローマ軍はピルムと呼ばれる投槍を投げ込むと、短剣グラディウスと盾をもって敵陣に突入白兵戦に入ります。外にいる敵には強いファランクスも内側に潜り込まれると成すすべがありませんでした。マケドニア軍がサリッサで対応できない間に、小回りの利くグラディウスは恐るべき威力を発揮しました。コホルス(歩兵大隊)戦術は、ローマがギリシャ諸国や周辺の蛮族たちとの戦いの中から編み出した戦術で白兵戦に最も特化したものです。

 

 こうなると動きの鈍いファランクスは致命的でした。各所で陣形を寸断され次々と討ち取られていきます。マケドニア騎兵は善戦していたそうですが、戦いに絶望したペルセウスは側近のみを引き連れ戦場から逃げ出します。戦の勝敗を分けたのはパウルスとペルセウスの将器の違いだったのかもしれません。国王に逃げられたマケドニア軍は哀れでした。総崩れになり潰走します。

 

 ローマ軍に捕らえられたペルセウスは、恥も外聞もなくパウルスの膝にすがり泣き叫んで命乞いをしたと言われます。これを冷静に眺めていたパウルスは、「気の毒な人だ。どうしてあなた自身がローマの敵であったことを誇りにしないのか」と言ったそうです。この敗北で、アレクサンドロス以来の伝統を誇るアンティゴノス朝マケドニアは滅亡します。ペルセウスは捕虜としてローマに連行され、同地で寂しく世を去ったと言われます。

 

 マケドニア王国は、4つの共和国に分割されますが、ローマに対し反乱を起こし第4次マケドニア戦争で完全に滅びました。パウルスはしばらくギリシャに留まり、ペルセウスに味方したギリシャ諸都市を厳しく処断します。この時奴隷に売られたものが実に15万人にも及んだそうです。ギリシャ各地の財宝は略奪され、この莫大な戦利品でローマ市民は数年間税を免除されるほどだったとも伝えられます。

 

 軍隊と共にローマに帰還したパウルスは凱旋式を上げると、再び隠遁生活に入りました。病を得て南イタリアで静養します。スキピオ家が贅沢の限りを尽くしていたのと対照的でした。パウルスの性格でもあったのでしょう。質素倹約に努め不必要な交際も避けます。ただ、ローマ市民たちはパウルスのローマ復帰を何度も嘆願したそうです。仕方なくパウルスはローマに帰還します。神官たちと共に病気平癒の儀式を済ませると、疲れたのか家に帰り床に就きました。そのまま失神状態になり3日後永眠。彼の葬儀には若者たちがこぞって棺を担ぎ、老人たちは葬列に付き従ったそうです。

 

 質素倹約の生活を送り、自分に厳しく他人に優しく、国家の危機には自ら進んでこれに当たる。パトリキ(ローマ貴族)の理想ともいえる人物がアエミリウス・パウルスでした。享年69歳。