

アレキサンドロス大王は「ハンマーと金床」戦術でオリエント世界を席巻します。しかし、彼の死後ハンマーと金床戦術は退化します。戦列のバックボーンであったはずのペゼタイロイが、さらに長いサリッサを装備し決戦兵力になっていったのです。やはり凡庸な武将にはこの戦術は無理だったのでしょう。
一方、地中海西部でも戦史に残る重要な戦いがBC216年行われます。
「カンネーの戦い」です。西地中海の覇権を賭けたローマとカルタゴが戦った戦闘は、後者の理想的な包囲殲滅戦として西欧の戦術教科書にも載り、研究されています。
イタリア半島中央部ティベル河畔の小さな都市国家から発展したローマ。フェニキア人の植民都市としてチュニジアの地に建設され、その立地条件から一大交易都市として発展したカルタゴ。発展する両者が衝突するのは必然でした。シチリア島の支配権をめぐって戦われた第1次ポエニ戦争。ポエニとはローマ人が呼んだフェニキア人の事。陸軍のローマ、海軍のカルタゴでしたが、ローマは自前の強力な海軍を建設し、先に楔の付いた跳ね橋を相手の船に立てかけ乗り移るという海上を陸戦化した戦術でカルタゴを破ります。
復讐に燃えたカルタゴの軍人貴族であるハストルバル・バルカスは一族を率いて未開のイベリア半島に上陸します。そして植民都市カルタゴ・ノブァ(現カルタヘナ)を建設しヒスパニアの地をフェニキアの支配下に置きます。父の後を受けローマに挑戦するのが、有名なハンニバル・バルカスです。
ハンニバルは悩みました。地中海はローマの制海権下にあります。とすれば陸路しかありません。アルプス越えはこうして決断されました。困難の末イタリア半島の入り口に達したハンニバル軍は、1万以上の犠牲を払いながらもまだ5万の兵力を有していました。
ハンニバル現るの報に驚愕したローマはあわてて迎撃の軍を出しますが、トラシメヌス湖畔の戦いなどで敗北してしまいます。この危機をうけて独裁官に就任したファビウスは持久戦法をとりました。制海権を持たず本国カルタゴからの補給を望めないハンニバル軍に対して、この戦術は正しい選択でした。しかし消極的なファビウスに対して、ローマ元老院から臆病だと非難の声があがります。そういえば中国戦国時代の長平の戦いにおいても同じような状況が起こりました。洋の東西を問わず人間は目先の事しか考えない積極論に傾くものですね。ローマはファビウスの任期が切れると、パウルスとワロを執政官に選出し8万の兵をもたせてハンニバル軍に挑みます。ローマの直接攻略が困難な事からハンニバルはローマの同盟都市を離反させるべく南イタリアにいました。ローマの大軍動くとの報を受けたハンニバルは、アドリア海沿いのアプリア地方カンネーの地で迎え撃ちます。
ローマ軍は中央に主力の重装歩兵を、その前方に軽装歩兵を配しました。右翼にローマ騎兵、左翼に同盟都市騎兵。ローマ軍はまずピルムと呼ばれる投槍を投げ、敵が混乱しているところをグラディウスという短剣を装備した重装歩兵が突撃するという戦術でした。ギリシャのファランクスよりは緩やかな密集で離合集散も自由でした。これは指揮官の能力に非常に左右されます。しかし相手はハンニバルでした。
ハンニバルは数に劣る自軍が勝利するためにはどうすれば良いか考えました。そして出た結論がこの陣形でした。両翼に騎兵を配したのはローマ軍と同じです。しかしローマ軍6千に対して1万と多く、当時最強と言われたヌミディア騎兵を有してました。これを決戦兵力として使用するには敵を包囲の輪の中におびき寄せなければいけません。ハンニバルは中央の重装歩兵の前方に、前の膨らんだ扇上に軽装歩兵を展開させました。しかもガリアで徴募した士気の低い兵を前方に押し立てたのです。
戦いの経過は、扇上に膨らんだカルタゴ軍軽装歩兵がローマ軍重装歩兵に押されて、自軍のほうに膨らんだ逆扇上になります。しかしそれ以上の後退は、後ろに自軍の重装歩兵がいるためできません。他方、両翼の騎兵同士の戦闘は数と能力で勝るカルタゴ軍の勝利に終わりました。この結果、ローマ軍は自然とカルタゴ軍の包囲下に置かれました。
あとは、殲滅戦です。このときローマ軍はほぼ全滅しました。2人の執政官と多くの元老院議員もそのなかに含まれます。これが歴史に名高いカンネーの戦いです。
しかし、ローマは滅びませんでした。国を挙げての抵抗を示し、復讐のために準備しました。再び兵力を蓄え、一人の若者に命運をたくします。彼の名をプブリウス・コルネリウス・スキピオ。BC202年北アフリカに乗り込みザマの地で行われた戦いは、ハンニバルの戦法を学んだ、この若者の勝利に終わります。第2次ポエニ戦争と呼ばれる戦いです。
その後のハンニバルはどうなったでしょう?祖国がローマに全面降伏したあと、お尋ね者となった彼は小アジア、シリアを転々と亡命します。ローマへの復讐を胸に現地の王を焚きつけて抵抗しますが、最後はローマの厳しい追及から逃れられず自決します。世界史上有数の英雄の最後としては、あまりにも寂しいものでした。