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フィリッポス2世とカイロネイアの戦い

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 アレクサンドロス大王を生んだ国マケドニアギリシャ世界の北縁に位置しギリシャ世界のヘレネス(ポリスの市民である文明世界の住民という意味)とは異質のバルバロイ(蛮族)と蔑まれました。実際、ポリスの共和制とは違う王制を採用しますが、民族的にはギリシャ人で間違いありません。マケドニアは最初から強国というわけではなく、むしろ弱小国でした。

 

 ペロポネソス戦争時代のマケドニア王ペルディッカス2世(在位紀元前448年~紀元前413年)は、ペラに遷都します。王権は安定せず、王位継承問題や貴族の反抗で何人もの王が暗殺されました。北西の隣国イリュリア(バルカン半島西部、アルバニアからモンテネグロあたり)とは対立し戦争になります。紀元前359年にはペルディッカス3世が戦死したほどです。

 

 フィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)はペルディッカス3世の弟でした。弱小国の常として幼少期時の覇権国テーベに人質に出されます。この時フィリッポス少年は、テーベの指導者エパミノンダスの斜線陣を学んだと言います。斜線陣はギリシャ世界特有の重装歩兵による長槍密集歩兵陣(ファランクス)の片翼(主に左翼)を50列と極端に厚くし、これを先陣として他の部隊を斜め後方に斜線上に布陣したものでした。エパミノンダスが強敵スパルタ軍に対抗するために編み出した戦術で、味方の弱い部隊が敵に接敵される前に50列の斜線陣で敵の片翼を粉砕し包囲することで勝ちを収める目的を持っていました。

 

 実際、紀元前371年レウクトラの戦いでエパミノンダスはスパルタ軍を破り新興国テーベを覇権国に押し上げます。テーベの斜線陣を冷静に分析したフィリッポスは、50列の縦深ではなくより機動力の高い重装歩兵を決戦兵種にしたらどうかと考えました。というのはマケドニアはスキタイなど遊牧民族と接し、ギリシャ世界よりは騎兵を編成しやすい土地だったからです。またギリシャ世界で有力な騎兵を出すテッサリア地方と隣接していたことも大きかったと思います。

 

 フィリッポスがいつ『ハンマーと金床』戦術を考案したか分かりませんが、少なくとも原型はテーベの人質時代に生まれたと言えるでしょう。斜線陣では片翼の50列の縦深の他すべての部隊が機動しますが、これは主力の50列以外は戦いの帰趨が決まるまでできるだけ敵との接敵を避けるためでした。縦深の反対側、一番手薄な片翼に指揮官を置き、敵部隊を引き付ける役割もあります。敵から見て一番遠い片翼に敵指揮官がいれば、敵軍はそこをめがけて殺到します。すると50列の縦深から見て敵は側面を見せることにもなるのです。

 

 しかし、フィリッポスは5mにも及ぶ長槍サリッサで武装したマケドニアン・ファランクスを動かしませんでした。敵軍を支えるバックボーンの役割を与えたのです。敵がファランクスに拘束されているうちに、両翼の騎兵が迂回、側面や背後から敵軍に襲い掛かります。ギリシャ世界には有力な騎兵がいませんでしたから、フィリッポスのハンマーと金床戦術は非常に有効なものになり得ました。

 

 兄の死を受け帰国したフィリッポス2世は即位します。混乱した国を纏めると国力の伸張に力を尽くしました。ハンマーと金床戦術に適合できるよう国軍を作り変え、厳しい訓練を施します。ギリシャ世界で弱小国と侮られていたマケドニアフィリッポス2世の時代急速に強大化しました。その国軍を使い、フィリッポス2世はまず兄の仇イリュリアを討ちます。以後積極的にポリス間の争いに介入、発言権を強めました。

 

 そんなマケドニアを苦々しく見ていた旧覇権国アテネとテーベは同盟して思い上がったマケドニアを叩こうと考えます。反マケドニアの急先鋒はアテネの指導者デモステネスで、彼はギリシャ世界を遊説反マケドニアで纏め上げました。両者の対立は先鋭化し、ついに紀元前338年ボイオテア地方のカイロネイアでぶつかりました。テーベ・アテネ連合軍は3万5千人を集めます。これに対しマケドニア軍は歩兵2万2千、騎兵2千でした。

 

 テーベ軍が右翼、アテネ軍が左翼を担当し両翼にそれぞれの騎兵を配します。これに対しマケドニア軍は中央に重装歩兵ペゼタイロイによるファランクス、左翼にフィリッポス2世の嫡男アレクサンドロス(後の大王)率いる重装騎兵ヘタイロイとテッサリア騎兵、右翼はフィリッポス2世直率の精鋭軽装歩兵ヒュパスピスタイとヘタイロイを置きました。マケドニア軍は最左翼、アレクサンドロステッサリア騎兵を最前列に、他の部隊を斜めにずらして配置しフィリッポス2世のヒュパスピスタイとヘタイロイが一番最奥に布陣します。見かけ上はエパミノンダスの斜線陣でした。フィリッポス2世は自身を囮として敵軍をおびき寄せ、アレクサンドロスの騎兵で包囲殲滅しようとしたのです。

 

 意外にも最初に戦端を開いたのは一番後方のフィリッポス2世でした。機動力のある精鋭ヒュパスピスタイはアテナイ軍を軽く叩くと敵軍を誘引するように後退します。自軍が押していると勘違いしたカレス率いるアテネ軍は功名心に駆られて突出、友軍テーベ軍との間に致命的な間隙ができました。アレクサンドロスはこれを見逃さず騎兵を率いてその間隙に突入します。マケドニア軍のファランクスとぶつかって身動きの取れなくなっていたテーベ軍は、アテネ軍と分断されました。アテネ軍は逆襲に転じたヒュパスピスタイとアレクサンドロスの騎兵に挟撃され潰走、完全に包囲されたテーベ軍は全滅に近い打撃を受けます。アテネは海軍は強くても陸軍はそれほどではなく、ギリシャ世界ではスパルタと並んで最強を誇るテーベ軍を叩くのがフィリッポスの目的だったのでしょう。

 

 カイロネイアの勝利は、マケドニアギリシャ世界の覇権国に押し上げました。以後、ギリシャのポリスは二度とマケドニアに太刀打ちできなくなります。輝かしいハンマーと金床戦術が世界史上にデビューした戦いでした。ギリシャ世界の盟主となったフィリッポス2世は、コリントス同盟を提唱、アケメネス朝ペルシャに対し復讐戦を唱えます。しかし紀元前336年10月、娘の結婚式の席上、強権政治に反発した男に暗殺されるのです。この暗殺劇には息子アレクサンドロスを廃嫡しようとしたフィリッポス2世を憎んだ妻オリュンピアスの関与も疑われています。フィリッポス2世、享年46歳。

 

 彼の夢は息子アレクサンドロス3世(大王)に受け継がれます。が、ハンマーと金床戦術は結局フィリッポス2世アレクサンドロス大王の二代で終わります。この戦術を使いこなすにはある程度の戦術能力が必要だったという事なのでしょう。大王の後継者たちの時代、決戦兵種が金床のはずのマケドニアン・ファランクスに移るほど退化しました。そしてこれら後継者王朝であるアンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝リシア、プトレマイオス朝エジプトは、白兵戦に特化したコホルス戦術を駆使するローマ軍に敗れ去るのです。