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ハンマーと金床戦術がアレクサンドロス大王の死後退化した理由

 あまり興味のある方はいないと思いますが、書評『アレクサンドロス大王 その戦略と戦術』を書いて以来、ハンマーと金床戦術がなぜ衰退したかについてずっと考えています。このブログでは何回も説明したので知らない人はいないと思いますが、もし初めて読む方がいると困ると思うので一応説明します。

 ハンマーと金床戦術とは、マケドニアファランクス(重装密集歩兵陣)を組んだペゼタイロイを金床として敵部隊を拘束し、両翼の重装騎兵ヘタイロイが決戦兵種として敵の側面に回り込み攻撃を加え殲滅するというものです。ただしペゼタイロイと機動するヘタイロイの間には致命的な間隙が生じかねず、敵に慧眼の将が居れば逆にこの間隙を突かれ両者を分断して各個撃破されるという危険性をはらんだ陣形でした。アレクサンドロス大王の父でハンマーと金床戦術を創始したフィリッポス2世は、この弱点を補うためにペゼタイロイと同じ5mの長槍サリッサを装備しながらより軽装で機動的に動ける精鋭軽装歩兵ヒュパスピスタイという兵種を作ります。

 ヒュパスピスタイは、ヘタイロイの機動時はペゼタイロイとの間隙をうめ敵の突撃を防ぎ、攻勢時には突撃の一角となり敵を攻撃しました。いわばハンマーと金床戦術の肝ともいえるのがヒュパスピスタイで、フィリッポス2世も特にこの兵種を重視し厳しい訓練を施します。アレクサンドロス大王は父の遺産である精強なマケドニア軍を率いてアケメネス朝ペルシャを滅ぼすことが出来たのです。

 しかし長年の遠征で、さしものマケドニア軍も消耗し本土から補充される新兵は碌な訓練も積んでおらず質が低下していたと言われます。特にヒュパスピスタイの弱体化は致命的でアレクサンドロスの死後部下たちが大王の遺領を巡って戦ったディアドコイ戦争時代にはほとんど機能していなかったとされます。ちなみにヒュパスピスタイはインド遠征時代銀楯隊(ぎんじゅんたい ぎんだてたい)と名前を変えていますが、それは質の低下を物語っていたと思います。

 それでも銀楯隊に頼らざるを得ないほどマケドニア軍は変質し弱体化していたのでしょう。銀楯隊は老齢になってもディアドコイ戦争に駆り出され続けました。重装歩兵ペゼタイロイが決戦兵種となり本来の決戦兵種であった重装騎兵ヘタイロイが活躍できなくなったのも兵の質の低下が原因の一つだったと考えます。

 ディアドコイたちは、ペルシャやインドから象兵まで動員して戦いました。いくつかの戦いでは象兵の数が勝敗を決めるまでになります。ここまでくるともうマケドニア軍ではありません。ディアドコイたちが一番期待したのはギリシャ人傭兵だったそうです。ギリシャ人はファランクス戦術を叩きこまれ、傭兵としてオリエント諸国に雇われました。アレクサンドロス大王の東方遠征の時一番の強敵がギリシャ人傭兵だったとも言われます。ギリシャ傭兵隊長メムノンは有名ですよね。

 ディアドコイたちは競ってギリシャ人傭兵を雇い入れ、より多くの報酬を約束した陣営が勝利することもあったそうです。大王の死後ハンマーと金床戦術が退化したのは、将軍たちの能力が劣っていたという事もあるでしょうが、物理的に採用できなかったという面もあるかもしれません。

 ただ後継者王朝のうち唯一アレクサンドロス時代の兵の質を維持できる可能性があったのはマケドニア本土を継承したアンティゴノス朝です。ところが彼らも他の後継者王朝と同じく似たような戦術しかできませんでした。これは単純にアンティゴノス朝の各王の能力が劣っていたという事かもしれません。そしてより機動力があるローマのコホルス(歩兵大隊)戦術に敗れ去るのです。

 ちなみにローマも最初はイタリア半島南部のギリシャ人植民都市ネアポリス(現ナポリ)やタラントの影響を受けギリシャ式のファランクスを採用していました。ところがアペニン山中のサムニウム戦争で、剽悍な山岳民族サムニウム人のゲリラ戦術に完敗、試行錯誤の末コホルス戦術を生み出します。

 このように戦術は試行錯誤し、より良いものを生み出していく創造性が大切で、いつまでも過去の栄光にすがっていては駄目だという教訓なのかもしれませんね。