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アレクサンドロス戦記①   - グラニコス河の戦い BC334年 -

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 紀元前334年、マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)は歩兵3万2千、騎兵5千の兵力を持って念願のアケメネス朝ペルシャへの遠征の旅に出立します。

 それは、かってのペルシャギリシャ世界への侵略に対する復讐でもあり、さらには膨張するギリシャ世界の生存権獲得のためでもあったのです。



 当時の超大国アケメネス朝ペルシャに侵攻するなど正気の沙汰ではないと酷評するものも多かったのですが、マケドニアギリシャ世界の最辺境にあり、意外にペルシャがガタガタになっているとの情報は入っていたのだと思います。




 マケドニア軍来るとの報告を受けたペルシャ側では、ギリシャ傭兵隊長であるメムノンを中心に対策を練りました。メムノンはまともにマケドニア軍にあたる愚を説き、マケドニア軍は侵略軍であるために補給に弱点があると主張します。

 メムノンの策は焦土戦術でした。マケドニア軍の侵攻ルート上の町や村を焼き補給できなくするとともに、敵の補給路を叩き撤退に追い込むという作戦でした。


 しかし、これには現地小アジアに駐屯するペルシャ人将軍や太守の間から猛反発が起きます。統治する立場の彼らにとって、自分の統治下の領地を荒廃させるなど言語道断だったのです。しかも一介の外国人傭兵隊長のくせにダレイオス大王からの信任厚く、指揮権まで与えられたメムノンに対する反発も大きかったようです。


 ペルシャ軍の弱点は指揮系統の混乱でした。メムノンに一応の指揮権は与えられていましたが、他の将軍や太守は同格で、強権的な命令ができなかったのです。軍議はグラニコス河の線でマケドニア軍を食い止めるという常識的な線で落ち着きました。


 これはアレクサンドロスにとっては天佑でした。もしメムノンの作戦が採用されたら東方遠征どころか小アジアの地でマケドニア軍が壊滅しかねない危機だったのです。




 紀元前334年5月、両軍はぶつかります。その兵力はマケドニア軍がマケドニアファランクスを形成する重装歩兵ペゼタイロイ2万2千、精鋭のヒュパスピスタイを含む軽装歩兵2万、重装騎兵ヘタイロイを主力とする騎兵5千で合計4万7千。一方ペルシャ軍はファランクスを形成するギリシャ人傭兵隊5千を主力とする歩兵1万5千、騎兵1万。その他の補助部隊も含めて4万弱だったと伝えられています。


 両軍の布陣はグラニコス川を挟んでマケドニア軍が中央左にペゼタイロイ、中央右にヒュパスピスタイ。左翼にテッサリア騎兵、右翼はアレクサンドロス直率のヘタイロイ重装騎兵を配するいつものオーソドックスな「ハンマーと金床」用陣形でした。

 しかし、これに対してペルシャ軍の布陣は、川岸に近い前陣に騎兵、後陣に歩兵を配するという理解に苦しむものでした。通常は敵の渡河攻撃に備えて中央に歩兵、左右に騎兵を配するのが常識的です。あるいは騎兵を背後に置いて、敵の迂回攻撃に備えるという手もありますが。


 騎兵は攻撃力はあるのですが、防御力が弱いためこれでは有効な働きはできません。もちろんすべてが弓騎兵で、敵の渡河攻撃中に矢の雨を降らせるという作戦なら理解できるのですが、「アレクサンドロス大王東征記」などを読んでもどうもそのような編成ではなかったようです。



 私は、ペルシャ軍が統一的指揮者を持たず各自がてんでバラバラに布陣した結果ではないかと考えています。メムノンギリシャ人傭兵隊に手柄を与えないため自分たちの騎兵を前面に押し出したのかもしれません。


 これでは戦う前から勝敗は決まってしまいます。おそらくアレクサンドロスも敵の布陣をみて与し易しと見たのでしょう。大胆にも自らが先頭になって馬を河の中に入れ、最も危険と言われる敵前渡河攻撃を開始しました。


 驚いたことに敵からの攻撃は散発的な矢の攻撃だけでした。アレクサンドロス率いるヘタイロイ部隊は、すぐさま前面のペルシャ騎兵部隊に襲い掛かります。ペルシャ軍がマケドニア騎兵に気を取られている隙に歩兵部隊も無事渡河に成功し、歩騎合同で攻撃を開始しました。


 比較的軽装だったペルシャ騎兵はこれを支えきれず潰走します。敵中に取り残される形となったギリシャ人傭兵隊も、単体では戦局を覆すことはできず、やむなく撤退に移りました。



 マケドニア軍の圧勝でした。ペルシャ軍の小アジアにおける実質陸軍兵力はこれだけだったので、この戦いの結果、アナトリアにおけるマケドニアの覇権が確立したといってもよいでしょう。



 敗戦の報告を受けたペルシャ王のダレイオス3世は激怒します。ペルシャ人将軍たちを召喚しあらためてメムノンアナトリアの全指揮権を与えました。



 メムノンは、精鋭のマケドニア軍と正面からぶつかるのを避け、もっぱら補給路を叩く作戦に切り替えます。ペルシャ軍の有利な点である海軍力をフルに使う戦術です。


 ペルシャ軍に属するフェニキア艦隊を使ってアナトリアギリシャ本土の連絡を断ち、エーゲ海沿岸の島々を占領してマケドニア遠征軍を敵中に孤立させる作戦でした。


 これにはアレクサンドロスも困り果てます。マケドニア海軍が弱体なため手も足も出ないのです。


 

 困り果てたアレクサンドロスは、地中海沿岸のペルシャ海軍の基地を陸上から攻撃して占領することで対抗する作戦をとります。それは時間との勝負でした。マケドニア軍の補給が尽きるのが先か、それともペルシャ海軍の海上封鎖を解くのが先かの。



 ここでアレクサンドロスにとっては幸運、ペルシャ側にとっては不運な出来事が起こりました。ペルシャの指揮官メムノンの急死です。病死だと伝えられていますが、マケドニア軍を完璧に抑え込んでいただけにペルシャにとっては致命的な出来事でした。


 メムノンの方針は受け継がれましたが、主将を欠く状況では海上封鎖も徹底できずマケドニア軍は一息つくことができたのです。



 戦争の流れはちょっとしたきっかけで潮目が変わるといわれますが、メムノンの急死はまさにこれでした。最大の強敵を無くしたアレクサンドロスは、以後世界史上でも稀にみる大遠征を成功に導くのです。