
仝殿絅リエントの陣形
シュメール文明において都市国家の軍隊は歩兵が主力でした。おそらくは密集した歩兵の方陣同士の激 突で決着が決まったでしょう。戦の規模も小さく多くても数千単位(兵站の未発達)だったと思います。
▲デッシュの戦いBC1285
ナイル河のもたらす沃土で高度な農耕文明をひらいたエジプト。ヒクソスの侵入を撃退して新王国を開 いたエジプトは、ヒクソスの戦車戦術を学びシリア方面に進出します。そこに立ちはだかったのが、鉄 器と戦車でオリエント世界を席巻したヒッタイト王国でした。おそらくエジプトはこのとき青銅器製の 兵器。国力で劣るヒッタイトでしたが、武器の優越で互角の戦いをします。このときの戦いは戦車戦。 2頭から4頭だての戦車に護衛の歩兵がついて戦います。戦車だけの機動部隊もあったでしょう。陣形 は主力の戦車の機動力を生かす縦陣。両翼包囲なら左右に展開。中央突破戦術なら単縦陣ではなかった でしょうか?
レウクトラの戦いBC371
オリエント世界に騎兵が登場したのは周辺の遊牧民族(スキタイなど)が侵入してきたために、それに
対抗上のことでしょう。戦車より騎兵のほうがはるかに機動力が勝ります。面白いことに古代中国でも
北狄の侵入に悩んだ趙の武霊王が胡服騎射を採用して一時中国を統一するほどの強勢になりました。
騎兵は弓騎兵が主力でした。アケメネス朝ペルシャは弓騎兵と帝国各地から寄せ集めた軽装の歩兵で陣
を組みまだ戦車も残っていました。それに対して、ギリシャは歩兵中心の軍隊でしたので、独特の陣形
を発展させました。ファランクスと呼ばれる、長槍と盾を持った重装歩兵を密集させた方陣です。オリ エント式の軽装弓騎兵と徴募した軽歩兵の横陣とファランクスはどっちが強いのか?その答えはアケメ ネス朝がギリシャに侵入したペルシア戦争ではっきりします。ポリスの市民からなるファランクスは祖
国防衛に燃え見事侵略者を撃退します。また、古典アナバシス(クセノボン著)でも、ペルシャの王子
キュロスの雇ったギリシャ人傭兵のファランクスがペルシャ正規軍を破ります。戦い自体は血気にはや ったキュロスが突進して戦死、ギリシャ人たちは敵中に孤立しますが。
では、ファランクスは無敵だったのでしょうか?じつは致命的な弱点があったのです。正面に対する
衝撃力は絶大ですが、側面、背後は脆弱だったのです。そのために両翼に騎兵を配して弱点を補いま す。ファランクスを倒すには、接近せず、騎兵の機動力を生かして、遠巻きに弓で攻撃していけば良い
のです。アケメネス朝がそれをしなかったのは、大国としての面子でしょう。逃げ回って弓を射掛ける だけの戦争をしたら、他民族国家であるペルシャは支配下にある民族の侮りを受けます。各地に反乱が
おき滅亡するでしょう。したくてもできなかったのです。
ギリシャ世界では、しかし騎兵はあまり発展しませんでした。それよりもファランクスの陣形自体に
工夫がされました。それが「斜線陣」でした。
前置きが長くなりましたが、テーベの斜線陣がスパルタの強兵を破ったレウクトラの戦いを紹介しま す。
BC371年、スパルタとアテナイの対立で起こったペロポネソス戦争で両大国の指導力が衰えると
新たにボイオティア同盟の盟主として台頭してきた都市国家テーベがスパルタの覇権に挑戦します。
テーベの指導者エパミノンダスは強国スパルタに対抗するため左翼を50列と分厚く配し、右翼にいく にしたがっって薄く斜めに後退させた、いわゆる斜線陣を完成させます。
スパルタは12列と均等に配した横陣。これがレウクトラの地で激突しました。兵力はスパルタ軍1万
1千にたいして、テーベ連合軍6千。まともならスパルタの圧勝でしたが、結果は逆でした。
スパルタ軍左翼が後退させたテーベ軍右翼に到達する前に、50列ものテーベ軍左翼が、スパルタ軍右 翼を粉砕しそのまま、敵の背後にまわって攻撃しました。これにはさすがのスパルタ軍も耐え切れず、
2千もの戦死者をだして敗走します。以後、エパミノンダスの生きている間、テーベの覇権が確立しま した。
この時代、テーベに人質として隣国の王子がおくられました。その名はフィリッポス。聡明な彼はエパ
ミノンダスの斜線陣を学び、さらに改良して古代世界最強の陣形を開発します。
そう、彼こそ、有名なアレキサンドロス大王の父、マケドニアのフィリッポス2世その人です。
◇長くなりますので、続きは次回にします。