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ドイツの戦争Ⅳ  北アフリカ戦線

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 フランス侵攻作戦の後、時系列的にはバトルオブブリテン(1940年7月~1941年5月)を描くのが自然ですが、イタリア参戦を書いたので、その後のイタリア軍の動きとそれに関連する北アフリカの戦いを描きます。

 1940年6月10日、イタリアは中立をやめ枢軸国側で参戦しました。これはムッソリーニが快進撃を続けるドイツの尻馬に乗ろうとした、ヒトラーの大成功に嫉妬したなど様々な理由が挙げられます。参戦はイタリア軍幹部にとっては寝耳に水でした。というのも全く戦争の準備ができていなかったからです。一応兵力だけは陸軍が歩兵師団60個、自動車化歩兵師団2個、機甲師団3個、騎兵師団3個、山岳師団2個。空軍も1800機の航空機を保有していました。海軍に至っては新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級を始め有力な艦艇を持ちイギリスのH部隊(根拠地ジブラルタル)と地中海艦隊(根拠地アレキサンドリア)を合わせたものより強力でした。

 ところが燃料弾薬の準備が全くできておらず、戦争を想定した軍需物資の生産体制すら整っていなかったのです。こんな状態で勝てるはずありません。イタリア軍はドイツ軍に圧倒され瀕死の状態だったフランスに襲いかかりますが、国境を越えたイタリア軍はアルプスに駐屯する少数のフランス守備隊に敗退します。フランス軍が強いのかイタリア軍が弱すぎるのか?

 懲りないムッソリーニが次に目を付けたのは北アフリカギリシャでした。まずギリシャでは当然のごとく敗退しヒトラーに泣きついたため、ソ連への侵攻を準備していたドイツ軍はバルカン作戦をせざるを得なくなります。北アフリカの状況はさらに破滅的でした。

 当時イギリスはエジプトに第7機甲師団、第4インド歩兵師団などわずか3万5千人しか兵力を置いておらず、ムッソリーニの目には美味しい獲物に見えたのでしょう。ムッソリーニはエジプトの隣国、植民地リビアに20万の兵力を集結させました。1940年6月28日、ムッソリーニはエジプト進撃を命じます。ところが準備の整っていないイタリア現地軍が実際に行動に移したのは9月13日。しかも国境から100km進んだシディ・バラニで次の補給を待つため停止してしまいます。エジプトの英中東軍は、このため万全の準備を整えていました。

 1940年12月8日、英中東軍はコンパス作戦を発動します。第7機甲師団、第4インド歩兵師団を主力とした部隊が油断しきっていたイタリア軍駐屯地を奇襲したのです。イタリア軍は大混乱に陥りました。潰走するイタリア軍を10分の1以下の英中東軍が追撃するという信じられない光景が出現します。6日後には英軍は早くもエジプト国境を越えリビアに雪崩れ込んでいました。1941年1月3日、エジプト国境に近い沿岸部のバルディアに追い詰められたイタリア軍は、第5オーストラリア歩兵師団を加えたイギリス軍に空陸から猛攻を受け大敗、リビア全土の失陥は時間の問題となります。

 たまりかねたムッソリーニは恥を忍んでヒトラーにドイツ軍派遣を要請します。ドイツ軍はエルヴィン・ロンメル中将を司令官とするドイツ・アフリカ軍団を編成し、まず2月に第5軽歩兵師団、ついで5月には第15装甲師団を派遣しました。空軍からも第10航空軍団がシチリア島リビアトリポリに送り込まれます。

 エルヴィン・ロンメル中将(1891年~1944年)は、ユンカー(土地貴族)ではなく中産階級出身、有能な軍人でヒトラーのお気に入りでした。一時はヒトラーの護衛隊長にも任命されています。フランス戦役では第7装甲師団長として活躍、今回のアフリカ軍団長起用は抜擢でした。といってもドイツ軍の主目的はあくまでソ連北アフリカは支作戦に過ぎません。ドイツ軍中枢としても継子扱いのアフリカ軍団にロンメルを起用したのは自然だったかもしれません。

 このころ、英中東軍も予想外の快進撃で補給線が延び切っていました。10万単位のイタリア兵を捕虜とし、人数よりエーカー単位で数えた方が早いと揶揄されたほどでした。イギリス側は当然ドイツ軍のリビア派遣を知っていましたが本格的反攻は5月以降だと判断します。しかしロンメルは早くも3月から行動を開始しました。1940年3月30日、エル・アゲイラで英独両軍はぶつかります。

 機甲部隊を巧みに機動させるロンメルの神出鬼没の戦術に圧倒された英中東軍はエジプト国境近くまで押し戻されました。国境を越えたドイツアフリカ軍団は、エジプトのハルファヤ峠を制圧します。英中東軍は、苦境を打開するため5月バトルアクス作戦を発動、反攻を開始しますがドイツ軍も激しく反撃し痛み分けに終わりました。

 一方、リビア北東の要衝トブルクではイギリス軍守備隊が包囲され孤立します。英中東軍はトブルク解放を目指し1941年11月クルセイダー作戦を開始しました。ドイツ軍もまた補給線が延び切っておりロンメルの快進撃はここで頓挫します。実は地中海の制海権は依然としてイギリスが握っていました。兵力で勝るイタリア海軍は、旧式戦艦しかない英地中海艦隊に敗北し軍港に閉じこもります。イタリア本土とリビアを結ぶマルタ島は要塞化され、独伊空軍の空爆でも陥落させられませんでした。ドイツ・アフリカ軍団のアキレス腱はまさに補給線です。

 この弱点がじわじわとドイツ軍を苦しめ始めていました。待望の第21装甲師団の到着で装甲2個師団体制になったアフリカ軍団でしたが、アメリカからの莫大な軍事援助を受け戦力を増強させた英中東軍との差は開くばかりだったのです。クルセイダー作戦は成功し、トブルクを含むキレナイカは再びイギリスの手に落ちます。1942年1月エル・アゲイラまで撤退した枢軸軍は、補給を整え再び反攻に転じました。6月21日トブルク要塞陥落。

 この北アフリカのシーソーゲームは、補給が原因でした。砂漠地帯ですから飲料水さえ補給に頼らざるをえません。攻勢に移ればそれまで備蓄していた物資を消費し進撃がある時点でストップします。そこへ撤退しながら物資を蓄積した側が反攻に転じるのです。英第8軍司令官にバーナード・モントゴメリー中将が就任します。アメリカから送られてきたM3リー、M4シャーマンなど新鋭戦車を集結させたモントゴメリーは、1942年10月エル・アラメインで総攻撃を開始しました。作戦名は「スーパーチャージ」。慎重なモントゴメリーは敵の3倍の兵力と十分な補給が無ければ攻勢に移さない性格で、この時もそれが十分に発揮されます。こうなるとロンメルの個人的な戦術では覆せないようになりました。

 枢軸軍にとって、苦境に拍車を掛けたのは1942年11月、トーチ作戦が始まった事です。アメリカ軍はついに重い腰を上げアルジェリアに大規模な上陸作戦を敢行します。兵力22万、戦車1000両、火砲1000門、航空機1200機という巨大な戦力は北アフリカの戦局を一気に変えるに十分なものでした。それでもチュニジアではドイツ軍が一時はアメリカの大軍を押し戻します。が、多勢に無勢。西からはアメリカ軍、東からはモントゴメリー率いる英第8軍に挟撃されたドイツアフリカ装甲軍(軍団から昇格)とイタリア軍チュニジア北東部に追い詰められました。

 そんな中司令官のロンメル元帥(トブルク攻略で昇進)は、ヒトラーに本国へ呼び戻されます。貴重なロンメルを失わないための方策でしたが、これで北アフリカの枢軸軍はさらに士気を低下させました。1943年5月チュニジアの枢軸軍壊滅、北アフリカにおけるドイツアフリカ軍団の戦いはここに終結します。以後、南部戦線はシチリア島、そしてイタリア本土へと戦場を移しました。



 次回、少し時間を遡りバトルオブブリテンを描きます。