鳳山雑記帳はてなブログ

ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

ドイツの戦争序章  ヒトラー政権の誕生

イメージ 1

 第1次世界大戦の敗北によってドイツでは帝政が倒れカイザー(皇帝)・ウィルヘルム2世はオランダへ亡命しました。ヴェルサイユ条約ダンチヒ回廊を失い、工業地帯であったルール地方は非武装とされフランス軍が保障占領するという屈辱に見舞われます。さらに戦争を起こした責任を追及され天文学的な賠償金を課せられたドイツが浮上する事は二度とないと思われました。

 軍も縮小され10万の兵力しか許されませんでした。危機感を持ったドイツ国防軍は将校と下士官の数を極端に増やし有事には兵士を動員し巨大な軍隊になるよう努力します。そのために将校にも下士官にも現在の階級より一段上の教育を施しました。これがドイツ国防軍精強の原因となるのですから歴史の皮肉です。兵士はすぐできても、将校や下士官は一朝一夕ではなりません。

 巨額の賠償金を課せられドイツ経済は疲弊します。ハイパーインフレが発生しそれに由来する社会不安が増大しました。民主的な政体を謳ったワイマール共和国(1919年~1933年)は無策で、ドイツ国内は極右と極左勢力が台頭します。その中に国家社会主義ドイツ労働者党という泡沫政党がありました。全体主義ファシスト政党で「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」「反共」などを唱えます。ところが、混乱期で政府が何もしないとなると国民の不満はこういう勢力に吸収されやすいものです。国家社会主義ドイツ労働者党こそ後のナチス党でした。一方、共産勢力も当時は大きな力を持っていました。無能なワイマール体制の下で、ナチス共産党は次第に対立を深めます。

 ナチス党が世に知られるようになったのは、アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)が党首に就任してからです。ヒトラーに関してはトゥーレ結社をはじめとする秘密結社への関わりなどアカデミックな歴史では扱えない謎(オカルトの類)が数多いですが、ここでは冗長になるので触れますまい。気になる方は過去記事「魔術師ヒトラー」をご参照ください。

 ナチス党は、傘下に準軍事組織である突撃隊(SA)を持ち侮るべからざる勢力に成長します。といっても合法的な選挙で政権を奪う道のりは遠く、ヒトラーらは一気に解決すべく1923年ミュンヘン一揆を起こしました。600人のSAとともに蜂起したヒトラーは、バイエルン王国(ドイツ連邦の一員)のビアホールで集会を開いていた州総監らを脅して自身の国民革命に協力させようとしたのです。

 しかし一揆バイエルン州警察によって半日で鎮圧され、ヒトラーは逮捕収監されました。失意のヒトラーは獄中で「我が闘争」を記します。ヒトラーにはカリスマ的な魅力があったと伝えられます。監獄の所長や職員はヒトラーに心服し州政府に仮釈放の申請すら申し出ました。こうしてヒトラーは釈放されます。1925年2月27日、ミュンヘン一揆によって非合法組織に認定されていたナチス党は禁止が解除され再建されました。1929年の世界恐慌ナチス党にとっては躍進の絶好の機会となります。同じころ共産党ドイツ国内で支持を拡大していました。

 1930年の国会選挙ではナチス党が得票率18%、共産党が13%でした。政権与党は社会民主党でしたが、野党第2党と第3党になったのです。ドイツ国内各地でナチスの私兵SA(突撃隊)と共産党の私兵「赤色戦線戦士同盟」が私闘を繰り返しました。ナチス党が何故急速に拡大したか考察すると、まずヒトラーのカリスマ性が上げられます。それに加えて天才的な扇動家ヨーゼフ・ゲッベルス(1897年~1945年)の活躍、共産党に政権を取られるよりはとナチスを秘かに援助したドイツ財界の動きも大きかったと思います。さらにはドイツ国防軍の重鎮であったルーデンドルフ大将のバックアップもありました

 こうした動きを受けヒトラーは1932年大統領選に出馬します。決選投票で現職のヒンデンブルク大統領に敗れはしたものの1932年7月の国会議員選挙でナチス党は得票率37%(230議席)を獲得して第1党に躍り出ます。1933年首相に就任したヒトラーは、宿敵共産党を国会議事堂放火事件の犯人に仕立て上げ共産主義者の逮捕を開始しました。同年3月24日には全権委任法を可決させ議会と大統領の権限を完全に形骸化させます。ヒトラー独裁政権の始まりです。

 ヒトラーは自分の権力を強固なものにするためSAの指導者レームを「長いナイフの夜」事件で粛清、1934年8月2日現職のヒンデンブルク大統領死去を受けて国家元首である大統領の職務を首相である自分が兼任する事を決め、国民にはフューラー(指導者)と呼ばせました。日本では総統と呼びます。

 ヒトラーは、ドイツを雁字搦めにしているベルサイユ体制からの脱却を表明しました。これが世界恐慌で苦しんでいたドイツ国民から熱狂的な支持を受けます。1935年3月16日再軍備宣言、1936年には非武装地帯ラインラントに進駐しました。この時世界はフランスと戦争になると恐れましたが、ドイツ国民の圧倒的支持を受けるヒトラーに対しフランスは最初から腰が引けており何事もなく終わります。

 ヒトラーが国民の支持を受けたのは、軍事外交的な成果だけではありません。経済学者シャハトを起用し、ケインズ政策を推し進めます。アウトバーン建設や各地の巨大建造物は有効需要を創出する目的でした。古典経済学では基本的に市場は放置でしたが、ケインズ政策によって市場を動かし経済を活性化させ失業者を激減させます。

 ところが、世界は大恐慌から完全に脱却できず列強はブロック経済を推し進めました。こうなると持たざる国であるドイツや日本は苦しくなります。ナチスドイツの侵略を正当化するつもりは毛頭ありませんが、こういった背景も原因の一つだと言う事は頭に入れてください。

 1936年ベルリンオリンピックを成功させたドイツでしたが、このころから国民の不満のはけ口としてユダヤ人迫害を加速させ始めました。1937年にはスペイン内戦に介入します。外交的には1937年日独伊防共協定を結びました。1938年オーストリア併合、ミュンヘン会議ではチェコズデーテン地方を割譲させます。英仏はこの動きを国際平和の大義名分の下黙認するのみでした。

 こうなるとヒトラーの次の目標は、第1次世界大戦敗戦の結果奪われたダンチヒ回廊の奪還です。しかし、此処まで来るとさすがに英仏も重い腰を上げざるを得なくなります。1939年9月1日、外交的な要求をポーランドに拒否されたドイツ軍は国境から大軍で雪崩れ込みました。英仏がドイツに即時宣戦布告したため第2次世界大戦が勃発します。


 次回は、ポーランドを巡る独ソの動きとポーランド電撃戦の実態を描きます。