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ドイツの戦争13  ベルリン攻防戦(終章)

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 最初に、アルデンヌ攻勢からベルリンの戦いに至るまでの経過を記します。ラインの守り作戦の破綻でドイツ軍は虎の子の戦車800両、兵員10万人を失いました。この作戦に投入した兵力はもともと戦略予備として準備されたものでしたから、それが無くなった以上西部戦線の崩壊は時間の問題となります。

 ドイツ国防軍は国境沿いにH軍集団、B軍集団、G軍集団を並べて連合軍の進撃を食い止めようとしますが、師団充足率は半分にも満たず戦車や火砲も不足していました。1945年3月7日、ライン河に掛かるレマゲン鉄橋が奇跡的に爆破を免れ連合軍の手に入ったためここを起点に第12軍集団隷下の第1軍(ホッジス中将、4月15日大将に昇進)がドイツ領内に雪崩れ込みます。

 ドイツ軍が連合軍の進撃を食い止めるため機甲部隊が通過できるライン河にかかる鉄橋を爆破していたところ、レマゲン鉄橋だけ間に合わなかったと云われますが、ソ連にドイツ全土を占領されるのを避けるために現場指揮官が独断で意図的に爆破をしなかったという説もあります。懐かしの戦争映画『レマゲン鉄橋』ではこのエピソードが劇的に描かれています。

 3月22日、米第9軍の増援を加えたモントゴメリーの第21軍集団マインツ付近でライン河を渡河し、H軍集団に襲いかかりました。H軍集団は簡単に撃破されハンブルクが連合軍の手に落ちます。モーデル元帥のB軍集団は、ルール工業地帯を南北に迂回した米第1軍と第9軍の挟撃を受けリップシュタットで包囲されます。4月18日ついにB軍集団降伏。しかし司令官のモーデル元帥は降伏を恥としピストル自殺しました。

 パットン中将の第3軍は、ボヘミア森林地帯沿いに南下、5月7日にはオーストリアリンツに達します。ハウザーSS上級大将のG軍集団も米第1軍にミュンヘンを突破されました。ただしドイツ軍主力はアルプスに至るドイツ南部に立て籠もり持久体制に入ります。

 東部戦線では、1945年1月18日ハンガリーの首都ブタペスト陥落。6万2千のドイツ軍将兵が降伏しました。ハンガリーの油田地帯確保を目指した1945年3月の『春の目覚め作戦』も大失敗し破局を早めます。ソ連軍の逆襲を受け4月15日ウイーンが占領されました。

 東西から迫る連合軍。ところがここでアイゼンハワーは痛恨の判断ミスをします。首都ベルリンとドイツ軍主力のどちらを優先するかで、ドイツ軍撃破を選んだのです。兵学的には間違った判断ではありません。敵野戦軍さえ撃滅すれば敵首都など簡単に手に入るからです。一方ソ連は腐っても鯛とばかり首都ベルリンへ一直線に進撃しました。

 敵野戦軍を優先するというのは味方がすべて一丸となっている場合にしか適用できず、ソ連軍のように本質的思想の違う軍隊の場合は、まずベルリンを制圧してその後にドイツ軍に向かうべきでした。もしアイゼンハワーがこの事を十分承知していたらベルリンを最優先で占領しソ連の発言権を封じる事ができたと思います。そうすれば東西冷戦は起こらなかった可能性もあるのです。

 歴史にIFは禁物ですから、話を先に進めます。ドイツ国防軍は、ベルリンに迫るソ連軍に備えるためヴァイクセル軍集団を編成します。ヴァイクセルとはポーランドの中央を流れる大河ヴィスワ河のことで、軍集団の担当地域はヴィスワ河から、オーデル・ナイセ線に至るまさにベルリンの東の守りでした。が、軍集団自体は東部戦線で崩壊したA軍集団と中央軍集団の残存兵力の寄せ集めで兵力こそ50万を数えましたが、兵器の質は悪く充足率も低いものでした。

 司令官に任命されたのは、東部戦線で機甲戦術のエキスパートと評価されたゴットハルト・ハインリキ上級大将。軍集団隷下の主力部隊第3装甲軍司令官にも西部戦線から引き抜かれたマントイフェル大将が任命されました。ハインリキとマントイフェルは、情勢と自軍兵力を冷静に分析し敗北は時間の問題だと結論付けます。となれば、彼らは戦後を見据えできるだけ兵士と民間人を米英軍占領地域に逃がし向こうで降伏させる方策を決めました。

 これは国防軍の高級軍人としてはあるまじき考えでしたが、ドイツ人としてぎりぎりの決断だったと思います。最後の最後にナチス政権を見限ったのです。もちろん本分である防衛作戦は遂行しました。そればかりか劣勢の兵力を巧みに機動させソ連軍に痛撃を与え続けます。オーデル川の最終防衛戦を突破されたハインリキは更迭され、シュトゥデントに交代します。この時参謀本部はハインリキの後任をマントイフェルに打診したそうですが、彼は軍集団司令官就任を拒否しました。そればかりか「以後、第3装甲軍戦区の一切の命令はマントイフェルからのみ出される」と宣言します。

 事実上の反逆でした。もっとも実働部隊を握っているマントイフェルを敗色濃厚の参謀本部が処分できるはずもありません。マントイフェルは、戦後を見据え1945年5月独断でイギリス軍と交渉し指揮下の30万の将兵と共にイギリス軍に降伏しました。もしかしたら彼が戦後連邦議会議員になれたのは、30万の命を救った功績のおかげだったかもしれません。ソ連軍に降伏していたらシベリア送りになり生還できたものはわずかだったでしょうから。

 ヴァイクセル軍司令官を解任されたハインリキは後方地域の軍集団司令官に左遷されますが、ベルリン救援と自軍の退却問題を巡って国防軍最高司令官のカイテル元帥と対立しヒトラーの怒りを買います。国防軍最高司令部への出頭を命じられたハインリキですが、ロンメルのように自殺を強要される事を恐れた部下の大尉ができるだけ時間をかけて出頭するよう懇請したため彼もそれに従いました。そのうち4月30日ヒトラーが自殺したため処分を免れイギリス軍に降伏し捕虜となります。

 米英軍がソ連との協定でエルベ河の線で進撃を止めたため、ドイツの首都ベルリンにはソ連軍が殺到しました。攻撃を担当したのはジュ―コフの指揮する第1白ロシア正面軍とコーニャフの第2戦線正面軍。総兵力150万という大軍でした。一方、ベルリンを守るのは第18装甲師団、第20装甲擲弾兵師団、第9降下猟兵師団、ノルトラント装甲擲弾兵師団のわずか4個。これらも幾多の戦闘で消耗し半分も戦闘力が残っていれば良い方でした。ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将の指揮下にあるのは国防軍武装親衛隊合わせてわずか4万5千。これにヒトラーユーゲント、警察、国民突撃兵が加わります。

 誰の目にも絶望的な状況は明らかでした。4月1日、ヒトラーは総統官邸から総統地下壕に移ります。ソ連軍の攻撃開始は4月23日でした。航空機による空爆と3000門の火砲の砲撃を合図にソ連軍はベルリンに突入します。守るドイツ軍も必死に抵抗し壮絶な市街戦が繰り広げられました。が、結局は時間の問題で4月28日最終防衛線が突破され総統地下壕へ1kmの地点までソ連軍が迫ります。

 ヒトラーは愛人エバ・ブラウンと共に総統地下壕で自殺。1945年4月30日のことです。その後もベルリンのドイツ軍は戦い続け降伏したのは5月2日。ヒトラーによって後継指名されたデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し連合軍と降伏交渉を開始します。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月7日でした。






 第1次世界大戦の過酷な戦後処理がドイツ国民生活を困窮させ現状への不満からヒトラーナチス政権を誕生させます。そしてヒトラーは第2次世界大戦を引き起こしドイツだけで軍人民間人合わせて700万人という膨大な犠牲者を出したのです。それを考えるとドイツ人にとって戦争とは何だったのか、考えさせられますね。