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日本の戦争Ⅲ  真珠湾攻撃1941年12月8日

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 1941年12月8日と言えば日本人のほとんどが対米開戦の日だと知っています。日本が何故対米戦を決意したかさまざまな理由が語られていますから改めて私が述べる事はありません。ただ支那事変の収拾に手間取りアメリカに付け入る隙を与えたという事実は指摘しておかなければなりますまい。

 アメリカは、1939年に勃発した第2次世界大戦に参加してこそいなかったものの露骨にイギリスを支援し支那にも軍事援助を与えていました。その意味では最初から当事者だと言ってもいいでしょう。にも関わらず中立を装い日米交渉で日本を一方的に侵略国と決めつけ対日石油禁輸など真綿で首を絞めるように日本を追い詰めていきました。当時のアメリカの外交戦略を調べていくと用意周到に日本を追い詰め戦争を決断させた事が分かります。ですから、対米開戦は日本の意志というより追い詰められた結果として窮鼠猫を噛むという自存自衛の戦争だったと私は思います。先の戦争を日本の侵略戦争だと断罪する人は、その根拠を示してください。納得のいく理由を示さずに一方的に糾弾するのは卑怯極まりない態度だと思います。言いかえれば国賊です。



 永野修身海軍軍令部総長が開戦に向けての会議での発言

戦わざるも亡国、戦うも亡国。しかし戦わざるの亡国は精神の亡国である。最後まで戦う精神を見せての亡国なれば、いずれ子子孫孫が再起三起するであろう」

という言葉が当時の日本人全員の共通した思いであったと私は考えます。でなければお国のために散って行った何百万もの英霊の皆さんが浮かばれません。実際日本は負けはしましたが、その敢闘精神はアメリカはじめ各国を恐れさせ、いざとなったら日本は国民一丸となってやる国だという潜在的脅威を与える事は出来ました。


 ともかく、まともに戦ったらアメリカには勝てないという事は陸海軍は当然認識していました。山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦劈頭アメリカ太平洋艦隊に痛撃を食らわせ数ヶ月間身動きが取れない状態にし、その間に南方資源地帯を占領して不敗の大勢を作り講和に持ち込むという考えを持っていました。そのためには米太平洋艦隊の根拠地真珠湾奇襲攻撃しかないと心に決めていたのです。もちろんリスクは高く万が一日本艦隊がハワイ沖で待ち構えられ撃滅されればそのままなし崩しに敗北するという大ばくちでした。ただ海軍軍令部が出張するような南太平洋の漸減作戦ののち日本近海で艦隊決戦に持ち込むという伝統の作戦案では開戦半年であそこまで大成功をおさめられたかどうか分かりません。

 山本は、従来の戦艦中心の戦術ではなく空母を中核とした世界初の機動部隊を編成しハワイを叩く事を考えていました。難航する日米交渉の間にも日本海軍は猛訓練を続けました。そして1941年11月26日ハルノートが出された事により戦争は不可避となります。択捉島単冠(ヒトカップ)湾に集結した世界初の機動部隊「第一航空艦隊」は11月26日未明出港、12月2日には「ニイタカヤマノボレ」の開戦を意味する暗号電文を受け取るのです。

 第一航空艦隊の編制は次の通り

◇旗艦 正規空母「赤城」

◇第一航空戦隊 正規空母「赤城」「加賀」
◇第二航空戦隊 正規空母「飛龍」「蒼龍」
◇第五航空戦隊 正規空母「翔鶴」「瑞鶴」

◇第一水雷戦隊(警戒隊)旗艦 軽巡阿武隈
                駆逐艦「浦風」「磯風」「谷風」「浜風」「霞」「霰」「陽炎」「不知火」「秋雲」

◇第三戦隊   高速戦艦「比叡」「霧島」
◇第八戦隊   重巡「利根」「筑摩」

◇第二潜水隊(哨戒隊) 潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」



 1941年12月8日(現地時間12月7日)未明、ハワイ近海に達した日本機動部隊は二波にわたる航空攻撃を仕掛けます。完全に奇襲になった真珠湾では、戦艦5隻撃沈、戦艦2隻中破、航空機188機撃滅など大きな戦果をあげました。ルーズベルト大統領は、実は真珠湾奇襲を事前に知っていたという説もあります。しかし日本を戦争に引きずり込むためわざと見逃したと言われ、肝心の空母は偶然にもこの時真珠湾にいなかった事が傍証ともされますが真相は不明です。

 ともかく戦争は始まったのです。次回は真珠湾攻撃と時を同じくして始まったマレー半島上陸作戦、マレー沖海戦を描きます。