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日本の戦争13  レイテ沖海戦1944年10月

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 サイパンテニアン、グアムを含むマリアナ諸島の失陥は絶対国防圏の崩壊を意味しました。すでに1944年6月には支那大陸成都を基地としたボーイングB-29爆撃機による北九州工業地帯への爆撃が始まっていましたが、今後はサイパンテニアンを基地としたB-29による日本全土への大規模な空襲は必至となります。

 1944年9月15日にはパラオ諸島ぺリリュー島の攻防戦が始まっており中川州男(くにお)大佐の指揮する中川支隊(第14師団歩兵第2連隊基幹、兵力1万)が5万にもおよぶ米軍(第1海兵師団、第81歩兵師団)の大部隊を相手に2ヶ月に渡る激しい攻防戦を戦いました。

 ニミッツラインがマリアナから小笠原に向かうのなら、今度はマッカーサーラインの順番でした。マッカーサーラインの次の目標はフィリピンです。最初米海軍のキング作戦部長は飛び石作戦の考え方からフィリピンをスルーし台湾への上陸を提案しますが、フィリピンに特別の思い入れのあるマッカーサーに拒否されます。

 マッカーサーはまずフィリピン、レイテ島への上陸を企図します。レイテ島はフィリピン群島の中ほど東側にあり機動部隊が現在進行中のパラオ作戦とも連携でき、航空基地を建設すればルソン島への上陸支援に役立つという理由で選ばれました。米海軍は、マリアナ沖海戦を戦ったスプルーアンスの司令部を休養させハルゼーの第3艦隊を投入します。通常は隷下の機動部隊も司令部交代するはずでしたがミッチャー中将が引き続き指揮することとなり第38任務部隊と名称だけ変更しました。

 大本営は、フィリピン方面を担当する第14方面軍を編成します。司令官に選ばれた山下奉文(ともゆき)大将は制海権・制空権の問題からレイテ島に援軍を送っても無駄だと判断しルソン島への集中配備を考えました。ところが大本営は目先のレイテ島にこだわり第14方面軍にレイテ島へ増援を送るよう厳命します。その結果は当初から予想されていた通り輸送船を撃沈され数多くの日本軍将兵が海没しました。結局上陸できた部隊も重火器を海に沈められほとんど防衛力強化はできませんでした。

 海軍は、陸軍のレイテ決戦案に協力し上陸中のマッカーサー輸送船団の撃滅をすべく作戦を開始しました。まともに戦ってはハルゼーの機動部隊に全滅させられてしまいます。そこで考えられたのは日本海軍らしい複雑怪奇な作戦でした。まず小沢中将率いる第3艦隊が空母を囮にしてハルゼーの機動部隊を北方に釣り上げる。その隙に栗田中将率いる戦艦部隊を主力とした第2艦隊がレイテ湾に突入、マッカーサーの輸送船団を撃滅するというものです。ところがここでも作戦目的の不徹底からもし空母部隊を見つけたら輸送船団よりこちらを優先して撃滅して良いという中途半端な命令を下してしまいます。これが栗田艦隊謎の反転の遠因となりました。

 小沢中将は、栗田中将より先任でしたが「今回の作戦は栗田が中心だから」と自ら栗田の指揮下に入ると宣言します。生き残った機動部隊の幕僚たちは「栄光の機動部隊をそこまで惨めにする必要はないのでは?」と嘆きますが、小沢自身今回の作戦目的のためには機動部隊をすべてすり潰す覚悟でした。

 ハルゼーの機動部隊は第38任務部隊(ミッチャ―中将指揮)が空母×15、戦艦×6、重巡×4、軽巡×8、駆逐艦×58という膨大なものでした。それ以外に輸送船団護衛の第77任務部隊(キンケイド中将指揮)の護衛空母×6、戦艦×6、重巡×4、軽巡×4、駆逐艦×24、護衛駆逐艦×5、魚雷艇×39という有力な部隊も編入されています。

 これに対し日本海軍は、小沢中将指揮の第3艦隊が正規空母×1(瑞鶴)、軽空母×3(千代田、千歳、瑞鳳)、航空戦艦×2(伊勢、日向)、軽巡×3(多摩、五十鈴、大淀)、駆逐艦×9というかつての機動部隊の栄光から見るとさびしい陣容でした。一方栗田中将の第2艦隊はさすがに大日本帝国海軍の最後を飾るにふさわしい編制です。具体的に記すと

◇第2艦隊(司令長官:栗田中将)

◆第1遊撃部隊(栗田中将直率)
 第1戦隊  戦艦×3(大和、武蔵、長門
 第4戦隊  重巡×4(愛宕、高雄、摩耶、鳥海)
 第5戦隊  重巡×2(妙高、羽黒)
 第2水雷戦隊 軽巡×1(能代)、駆逐艦×9

 第3戦隊  戦艦×2(金剛、榛名)
 第7戦隊  重巡×4(熊野、鈴谷、利根、筑摩)
 第10戦隊 軽巡×1(矢矧)、駆逐艦×6

 第2戦隊(西村祥治中将)  戦艦×2(扶桑、山城)、重巡×1(最上)、駆逐艦×4

◆第2遊撃部隊(志摩清英中将)
 第21戦隊 重巡×2(那智、足柄)
 第1水雷戦隊 軽巡×1(阿武隈)、駆逐艦×4

 御覧の通り日本海軍総力を上げたものでした。この作戦は「捷一号作戦」と命名されます。フィリピンの基地航空隊も水上部隊の突撃に合わせ総力を上げて支援します。この時初めて神風特別攻撃隊が作られました。小沢の第3艦隊は瀬戸内海柱島から、栗田艦隊はブルネイから出撃しフィリピンの広大な海域を舞台に戦う事となります。

 1944年10月17日米軍はレイテ島への上陸を開始しました。日本海軍の作戦は最初から無理なものでしたが、はやくも暗雲が立ち込めます。ブルネイを出撃した栗田艦隊の旗艦愛宕がパラワン水道で米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈されたのです。艦隊司令部は戦艦大和に移乗しますが、ここにはすでに宇垣纏中将の第1戦隊司令部がありぎくしゃくした関係となります。両司令部は同じ艦橋にありながら連絡も不十分だという状態でした。24日、栗田艦隊はようやくパラワン水道、スリガオ海峡を抜けシブヤン海に入ります。

 その頃、小沢第3艦隊はハルゼーの機動部隊を引きつけつつありました。10月24日11時30分、なけなしの攻撃機隊が米機動部隊を攻撃すべく発進します。零戦40機、爆戦28機、彗星艦爆6機、天山艦攻2機です。このほか陸上基地からも航空攻撃が繰り返されました。栗田艦隊をある程度叩いていたハルゼーは、小沢艦隊を日本海軍の主力と考え今度こそ日本機動部隊の息の根を止めようと北上します。

 当時の海軍の常識として空母を囮にすることなど考えられなかったからです。それだけ日本軍が追い詰められていたとも言えます。小沢中将はハルゼーを引き付けるためわざと平電で連絡していました。まんまと騙されたハルゼーは小沢艦隊に攻撃を集中させ、そのために貴重な正規空母「瑞鶴」はじめすべての空母と軽巡多摩、駆逐艦2隻を失います。小沢長官は「我敵機動部隊北方釣り上げに成功せり」と栗田艦隊に悲痛な電文を打電しました。ところがこの電文はなぜか栗田艦隊司令部には伝わらず、栗田中将は最後までハルゼー機動部隊の位置が分からぬまま作戦行動し続け、これもまた神経をすり減らし謎の反転の遠因になったと言われます。

 ハルゼーの機動部隊主力はレイテ島の北東沖に去りましたが、まだまだ護衛空母17隻の巨大な航空戦力は残されており栗田艦隊は連日猛爆撃に悩まされます。10月24日、戦艦武蔵が米艦載機の集中攻撃を受け沈没、25日未明には西村艦隊がスリガオ海峡海戦でオルデンドルフ少将率いる米艦隊と遭遇し全滅しました。志摩艦隊も連日の戦闘で軽巡阿武隈と2隻の駆逐艦を失います。

 
 満身創痍の栗田艦隊は、10月25日サンベルナルジノ海峡を抜けサマール島沖に到達しました。栗田艦隊の戦力は戦艦×4、重巡×6、軽巡×2、駆逐艦×11にまで減少します。その時水平線上にマストを発見しました。これはスプレイグ少将第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(護衛空母×6、駆逐艦×3、護衛駆逐艦×5)でしたが、栗田艦隊はハルゼー機動部隊主力の正規空母だと誤認し砲撃を開始します。2時間の戦闘で敵護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈し2隻の護衛空母にも損傷を与えました。ところが米艦隊はスコールに紛れ逃亡します。

 分散した艦隊を纏めた栗田中将は本来の目的であるレイテ湾突入を命じました。すると南西方面艦隊司令部から「栗田艦隊の北100キロの地点に敵機動部隊が存在する」という電文が入ります。実は、南西方面艦隊はこの電文を発しておらず誰の仕業か謎になっています。私は米軍による謀略ではなかったかと睨んでいます。

 先のサマール沖海戦で敵正規空母を討ち漏らしたと痛恨の念を抱く栗田中将はこの電文を信じ、存在しない敵機動部隊を目指し再び北上しました。これが後世「栗田艦隊謎の反転」と呼ばれる事件です。私の個人的考えでは、17万にも及ぶ米軍レイテ上陸部隊を満載した敵輸送船団を叩くのが優先だったとは思います。しかし、ハルゼー機動部隊の位置を最後まで分からず行動し神経をすり減らしていた栗田中将の判断を責めることはできないと考えるのです。そもそも最大の問題点は複雑な作戦で作戦目的を徹底させなかった海軍軍令部エリート参謀の責任だと思います。無理な作戦はいずれどこかで破綻するものです。日本軍の悪癖である複雑な作戦が一番の敗因だったのでしょう。

 栗田艦隊の北上によって戦機は去りました。日本海軍は大きな犠牲を払いながらも制空権・制海権を奪えずレイテ島は孤立します。第14方面軍はレイテ島の第35軍に5個師団(1、16、26、30、102)と1個旅団を送り込みますが、8万4千の全兵力のうち実に7万9千という夥しい戦死者を出しました。しかもかなりの数が、上陸すらできず海没します。であるなら、最初から山下大将の主張通りルソン島へ集中配備すべきだったと思います。そうすれば史実以上の損害を米軍に与えもしかしたら沖縄戦は無かったかもしれないのです。

 レイテ島への戦力の増援はいたずらに犠牲者を生みだすだけでした。戦力の逐次投入という兵家のもっとも忌む行動を繰り返し続けた愚かな大本営のエリート参謀たち。山下大将ら現場のベテラン指揮官たちはどのように感じたでしょうか?しかし悲しいかな軍隊は最高司令部の作戦通りに動かざるを得ないのです。沖縄戦でもこの愚行は繰り返されます。

 レイテ島の日本軍が組織的抵抗を止めたのは1945年1月。その後も残存部隊は終戦まで戦い抜きました。米軍がルソン島に上陸を開始したのは1945年1月9日。レイテ島の戦いで有力部隊を数多く引き抜かれた第14方面軍に残された戦法は持久戦しかありませんでした。そして第14方面軍は大きな犠牲を出しながらも終戦まで戦い続けます。米軍はマニラやクラークフィールドなど重要拠点を占領すると、掃討作戦より硫黄島、沖縄への侵攻を優先させました。日本本土へと戦いの主舞台は近付きつつあります。次回は硫黄島の戦いを描くこととしましょう。