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日本の戦争12  マリアナ沖海戦1944年6月

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 ガダルカナル島を巡る戦いに敗れソロモン群島やニューギニア各地でアメリカ軍の猛攻を受ける日本軍。島嶼部では孤立した守備隊がマキン・タラワやアッツ島に始まる凄惨な玉砕戦を繰り広げていました。ミッドウェー海戦で虎の子の正規空母4隻を失った日本海軍は、2年を掛けて空母機動部隊の再建に力を入れます。ところが、ベテランのパイロットはラバウルの航空消耗戦に引き抜かれ新人パイロットの教育もままならず再建は遅々として進みませんでした。肝心の正規空母装甲空母大鳳」が1944年3月に竣工したばかり。改飛龍型の「雲龍型」はまだ建造中(「雲龍」「天城」は1944年8月竣工、「葛城」が1944年10月竣工、「笠置」は84%完成状態で戦後解体)、大和型戦艦から改装した「信濃」も1944年11月就航でマリアナ沖海戦には間に合いませんでした。

 何よりの問題は、空母に着艦できるベテランパイロットが少ないのと搭載する航空機の不足です。航空機とパイロットは今現在航空消耗戦を戦っているラバウルが優先で、いつ動くか分からない機動部隊に回す余裕は無かったのです。アメリカ軍がパイロットを戦場と後方勤務でローテーションさせ、後方で新人パイロットの教育をさせていたのとは雲泥の違いです。改めて日米の国力の差を思い知らされますね。

 ちなみに、このローテーション制度は機動部隊の指揮スタッフにも適用され、同じ艦隊をハルゼー中将が指揮する場合は第3艦隊、スプルーアンス中将が指揮する場合は第5艦隊と呼びました。隷下の機動部隊もハルゼーの時はシャーマン少将が担当して第38任務部隊と呼び、スプルーアンスの時はミッチャ―少将が指揮し第58任務部隊と呼びます。ですから第38任務部隊と第58任務部隊は指揮スタッフが違うだけで同じ艦隊です。機動部隊が58個あったわけではないので誤解しないように。

 日本の厳しい実情は、本来格納庫面積から75機搭載できるはずの「大鳳」にわずか53機しか搭載できなかった事からも分かります。しかも中には発艦はできても着艦はできないという新人パイロットまでいたそうですから絶望的です。

 大本営は、ガダルカナル戦敗北を受け1943年9月30日「絶対国防圏」を策定しました。日本と南方資源地帯、それを結ぶフィリピン、内南洋の防備を強化し戦略的持久しようという考えです。そのためにはサイパンパラオの要塞化が絶対条件でした。しかし、本来なら内南洋の要塞化は開戦初頭から考えておくべきだったと私は思います。どうせ日本の国力からハワイ占領はできても維持できない(通商破壊でぼろぼろになる)し、唯一のチャンスはインドを攻略してイギリスを戦争から脱落させる事だけでしたが、インド洋海戦で英東洋艦隊主力を捕捉できなかった時点で夢と終わりました。

 とすれば、いずれ日本軍の攻勢は攻勢終末点を越えて頓挫しアメリカ軍の反攻に晒されることは必定。あとはアメリカ軍に多大の出血を強い万に一つの講和の機運を掴むしかありません。それ以外には勝たないにしても負けを少しでも少なくする方法はなかったように考えます。ですから戦争の先行きが読める人間なら一刻も早く内南洋の要塞化を実行すべきでした。ところが日本軍の悪癖として攻撃に関する意見は称賛されても、防御に関しては「戦意なし」として逆に非難される風潮がありました。それがサイパンパラオの防備の遅れとなったのです。

 マリアナ沖海戦は、サイパン・グアムを含むマリアナ諸島を攻略しようと来襲した米機動無隊と、それを阻止しようと立ちふさがった日本機動部隊の間で戦われました。日本海軍機動部隊は、ようやく航空戦の第一人者小沢治三郎中将が指揮するようになりました。それまでは先任主義で出世が遅れたのです。有能な人物を抜擢したアメリカ軍との顕著な違いです。非常時には先任とか先例などと言っている場合ではありません。負ける組織は負けるべくして負けたと言えるかもしれませんね。

 日本海軍の総力を挙げた第1機動艦隊の陣容は次の通り。

◇第1機動艦隊(司令長官:小沢治三郎中将)

◆第1航空戦隊 正規空母大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」
◆第5戦隊    重巡妙高」「羽黒」
◆第10戦隊   軽巡「矢矧」駆逐艦「霜月」
           駆逐艦朝雲」「浦風」「磯風」「雪風」「初月」「若月」「秋月」「五月雨」

◆第2航空戦隊 正規空母「隼鷹」「飛鷹」軽空母「龍鳳」戦艦「長門重巡「最上」
◆第4駆逐隊  駆逐艦「野分」「山雲」「満潮」
◆第27駆逐隊 駆逐艦「時雨」「浜風」「早霜」「秋霜」

このほか栗田健男中将指揮する戦艦「大和」「武蔵」を中心とする艦隊も前衛部隊として参加します。日本海軍は、小沢機動部隊の航空戦力だけでは不安を感じ、テニアン島に司令部を置く角田覚治中将指揮の基地航空隊第1航空艦隊を今作戦に編入しました。

 米海軍は、ミッチャ―提督を司令官とする第58任務部隊を投入します。その戦力は搭載機891機、正規空母×7、軽空母×8、戦艦×7、重巡×8、軽巡×12、駆逐艦×67という史上空前の大機動部隊です。まともに戦っては勝てない事を小沢長官は痛感していました。そこで、日本機の長大な航続力を生かし敵機動部隊の行動半径の外から第一撃を加える、いわゆる「アウトレンジ戦法」を考えます。

 1944年6月13日、米機動部隊はサイパンに艦砲射撃を浴びせました。6月17日、囮の栗田艦隊に米機動部隊の航空攻撃を集中させその後方から我が軍の航空攻撃で叩こうとします。ところがレーダーで日本航空部隊の接近を知った米機動部隊は、直掩のF6Fヘルキャット数百機を飛ばし待ち構えました。決戦開始は6月19日早朝です。

 マリアナ作戦を担当する米第5艦隊の総司令官はスプルーアンス将(1944年2月昇進)でした。小沢は、慎重なスプルーアンスの性格から上陸地点を空にするはずがないとサイパン近海に敵機動部隊は居ると読みます。結果的にその判断は正しく、実は敵機動部隊を先に発見したのは日本の方でした。戦後、スプルーアンスも小沢のアウトレンジ戦法の可能性を認めています。しかし、勝敗を分けたのは科学力の差でした。

 小沢艦隊は、第一波の零戦14機、爆戦(零戦六二型)43機、艦攻7機を先陣とし第二波、第三波と波状攻撃を掛けました。これに基地航空隊を加えれば勝てると読みます。が、レーダーによって日本の攻撃機隊接近を知った米軍は待ち構えて迎撃し「マリアナ七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの一方的虐殺となりました。そればかりか、スプルーアンスは部下のミッチャ―に対し日本軍が反復攻撃できないようマリアナ各地の日本軍航空基地への空襲を命じました。

 小沢艦隊はわずか1日で航空機243機喪失という壊滅的打撃を受けます。そればかりか米潜水艦の魚雷攻撃で空母「大鳳」「翔鶴」を失いました。小沢中将はマリアナ失陥が即日本敗北につながるとい危機感から満身創痍にもかかわらず戦意を失いませんでした。6月20日日没前、小沢艦隊の上空に米艦載機216機が来襲します。生き残った隼鷹、飛鷹の活躍で米軍機100機を撃墜するという殊勲を上げますが、その代償は正規空母「飛鷹」喪失という痛いものでした。

 事実上、マリアナ沖海戦の敗北で栄光の日本機動部隊は滅びます。まだ正規空母「瑞鶴」が生き残っていますが17隻も竣工した米海軍のエセックス級空母の前では蟷螂の斧にしかすぎなくなりました。マリアナ沖海戦の敗因は、
①レーダーなど科学力の差
パイロットの訓練不足
③部隊間の相互連絡不足
④潜水艦に対する備えの欠如
などが上げられると思います。特に大鳳と翔鶴が航空攻撃でなく潜水艦の雷撃で撃沈されたのは致命的です。

 制海権、制空権を失った日本軍守備隊は1944年7月7日サイパンで玉砕します。7月18日、絶対国防圏の重要拠点サイパン失陥を受け東条内閣総辞職。小磯内閣が成立します。サイパンではかつての機動部隊司令長官から陸戦隊を指揮して戦った南雲忠一中将が自決しました。そしてテニアンでも8月1日、日本有数の航空指揮官で勇猛果敢でも知られた名将角田覚治中将も陸軍部隊と運命を共にします。

 サイパンテニアンの失陥で日本本土はB-29による空襲圏内に入りました。しかし戦争はまだ終わりません。次の戦いは比島決戦でした。次回、レイテ沖海戦を描きます。