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日本の戦争Ⅳ  マレー作戦1941年12月~1942年2月

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 真珠湾攻撃に関しては、こうすればよかったという意見が多いですがすべては結果論だと考えています。港湾施設の破壊、重油タンクへの攻撃などできれば理想でしょうが、失敗したら虎の子の機動部隊が壊滅し日本は何もしないうちに降伏を余儀なくされていたわけでそういうぎりぎりの緊張感の中で戦った南雲中将以下第一航空艦隊の面々を後付けで批判する事は避けたいと思います。

 真珠湾攻撃の意味は、日本が生きるために南方資源地帯を占領するまでの時間を稼ぐ事でした。アメリカ軍の本格的反攻が半年遅れたことで、戦略的にはまずまずの成功と見て良いでしょう。南方資源地帯占領の焦点はシンガポールでした。シンガポールには英東洋艦隊の根拠地があり、ここを制圧できるかどうかが南方作戦の成否を左右する最重要課題だったのです。

 陸軍は、シンガポールに至るマレー半島攻略にエースとも言うべき山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍(第5師団、第18師団、近衛師団基幹)を投入します。海軍は上陸作戦支援のために小沢治三郎中将率いる南遣艦隊を派遣しました。ところが南遣艦隊は主力が高速戦艦金剛であったため、英東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルスとの砲戦には不利でした。海軍は水上部隊の不利をカバーするためメコンデルタ地帯近くにあるサンジャック航空基地の第一航空部隊(松永貞市少将)を使う事を決めます。

 第一航空部隊の戦力は次の通り。

◇第一航空部隊
◆第二二航空戦隊 九六中攻×72機
◆第二三航空戦隊 零戦二一型×23機、九六艦戦×12機
◆第二一航空戦隊 一式陸攻×27機


 1941年12月8日早朝、真珠湾攻撃より70分早く第25軍はタイ国境に近いマレー領コタバルに上陸します。実はその前から日本軍輸送船団はオーストラリア空軍の偵察機に察知されていました。英領マレー半島に日本軍上陸という報を受けシンガポールからフィリップス中将率いるZ部隊(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス、駆逐艦×4)を出撃させます。

 第25軍の上陸を支援していた南遣艦隊小沢中将は、Z部隊北上の報告を受け上陸中の輸送船団を退避させ、まともに戦っても勝てないので夜戦を覚悟しました。一方、英軍は日本軍の航空戦力を侮っていたためエアカバーなしでZ部隊を突入させます。サイゴンにあった松永少将は南遣艦隊が夜戦に突入する前に少しでも有利にするために航空攻撃を決意します。

 当時は天候不良で航空作戦には不利でしたが、敵艦隊との距離300海里、このまま出撃すれば薄暮攻撃ができると踏んでの松永少将の決断でした。最初に出撃したのは鹿屋空(第二一航空戦隊)の陸攻18機、次が元山空(第二二航空戦隊所属)の陸攻17機、最後が美幌空(第二二航空戦隊所属)の陸攻18機です。

 Z部隊のフィリップス中将は、日本海軍索敵機を発見し奇襲攻撃の機会を失った事を悟りました。そのころ日本軍がマレー半島のクワンタンに上陸中との報告を受け日本軍輸送船団を攻撃すべくZ部隊は方向転換します。ところがこれは誤報でした。海軍航空隊は、Z部隊の迷走で発見に手間取りましたが、ようやく元山空の第3中隊がこれを発見し駆逐艦に魚雷一発を発射しますが命中しませんでした。Z部隊本隊に最初に到達したのは美幌空です。高度3000メートルから250キロ爆弾を投下、レパルスの煙突部に命中しました。その後後続部隊が続々と到着しプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに次々と魚雷を命中させます。Z部隊も必死に対空射撃を繰り返しますが、ほとんど効果はありませんでした。

 結局数時間の戦闘でチャーチルが不沈艦と豪語した新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈、艦隊司令長官フィリップス中将は艦と運命を共にします。撃沈の報告を受けたチャーチルはショックのあまりベッドで寝込んだそうです。この戦いをマレー沖海戦と呼びます。航空攻撃だけで航行中の戦艦を沈めた世界初の海戦でした。真珠湾攻撃マレー沖海戦で航空機の優位を世界に示した日本海軍。にもかかわらず大艦巨砲主義を最後まで引きずります。一方、真珠湾で主力戦艦をほとんど失った米海軍は必然的に空母中心の機動部隊戦術に移行せざるをえませんでした。
 
 英東洋艦隊を壊滅させた日本軍は、マレー半島を破竹の勢いで南下します。守るのはパーシヴァル中将の英極東軍(豪第8師団、インド第3軍、マレー義勇軍【2個旅団基幹】)です。戦力的には第25軍と大差ない数でしたが、英東洋艦隊壊滅のショックが抜けきれず各地で敗退を繰り返します。日本軍は最重要戦線であるマレー半島に虎の子の自動車化歩兵師団である第5師団、近衛師団とそれに準ずる第18師団を投入したのですから本気度が違いました。

 マレー作戦の成功はイギリスが半島各地にガソリンスタンドを設置し、それを補給しながら南下できたのが大きかったと思います。これが日本軍の兵站だけだったとしたらマレー一千キロ踏破はもっと時間がかかっていたでしょう。欧州戦線においてフランスで電撃戦が成功したのと同じ理由です。第25軍がシンガポール島を臨むジョホールバルに到着したのは上陸55日目の1月31日でした。英極東軍は東洋最大の要塞シンガポール要塞での抵抗に一縷の望みを託します。

 ところが海に向けての抵抗力は強くても、背後の内陸に対する備えは案外弱いものでした。それでもシンガポール島中央のブキテマ高地の攻防戦はマレー作戦中最大の激戦になります。ブキテマ高地失陥、シンガポール市街を潤す水道が破壊された事によりパーシヴァル中将はこれ以上の抵抗を断念しました。2月15日、白旗を掲げた英軍の軍使がやってきます。有名な山下中将の「イエスかノーか」という発言は降伏条件を巡っての山下・パーシヴァル会見での出来事です。

 会見場が薄暗くカメラマンがコマ送りで撮影したのをノーマルな回転で映写したのでせっかちで高飛車な態度に映ったとされます。実際の山下中将は紳士であったと伝えられています。シンガポール占領に関しては反日華僑の大量処刑などが問題視されますが、占領政策を妨害し破壊工作をしていたのなら処刑されても文句言えますまい。山下中将は、シンガポール占領後も憲兵隊と各隊から選抜された補助憲兵しか市内に入れないほど気を使い、不祥事を避けるために入城式も選抜隊だけで行ったほどでした。「イエスかノーか」という世間のイメージといかにかけ離れているか理解できると思います。

 ともかく、シンガポール攻略で南方作戦の峠は過ぎました。後は南方資源地帯を占領するのみ。次回はその代表としてバリ島沖、スラバヤ沖、バタビア沖の三海戦と蘭印攻略作戦を紹介することとしましょう。