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日本の戦争Ⅸ  ガダルカナル島攻防戦1942年8月~1943年2月

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 珊瑚海海戦の痛み分けにより海路からニューギニアの要衝ポートモレスビー攻略は不可能となりました。後はオーエンスタンレー山脈越えの陸路からの攻撃しか選択肢が無くなります。そうなると米軍が機動部隊はもとより陸軍航空隊まで動員して袋叩きに来るのは明らかでした。

 そこにミッドウェー海戦の歴史的敗北が重なり、オーストラリアを脱落させアメリカを孤立させる米豪遮断作戦いわゆるFS作戦が検討されることとなりました。FSとはソロモン諸島のはるか南東にあるフィジーサモア諸島の事でしたが、現実的にここまで進出するのは困難でしたからソロモン諸島南東の島から二式大艇の哨戒圏内で米豪連絡線を遮断するという方針に落ち着きます。そこで目を付けられたのがガダルカナル島でした。

 ジャングルがうっそうと繁る島でしたが、沿岸部には平野が広がり森林を伐採しさえすれば飛行場が出現するという好条件に恵まれた島でもありました。ここまでは良いんです。占領しても維持できるか、十分な航空支援は得られるかという現実問題はさておき戦理的には何の問題もありません。まずかったのはここからです。飛行場建設の設営隊2000名を守るのはわずか230名の陸戦隊のみ。日本側は米軍の本格的反攻を半年後と考えこのような馬鹿なことをしたのです。

 ところが米軍の反攻は予想外に早く、1942年8月7日午前4時米海兵隊第1海兵師団を主力とする一万余の大部隊が艦砲射撃と空母艦載機の支援を受けガダルカナル島テナル川東岸に上陸します。ほとんど戦闘部隊を持たない日本軍は瞬く間に駆逐され、生存者はジャングルに逃れました。そもそも最初から第2師団が設営隊と共に上陸し強固な防衛陣地を構築していれば防げる戦闘でした。日本軍の情報軽視、米軍の情報重視の姿勢が明暗をはっきり分けたと思います。大本営はこの期に及んでも米軍の上陸を威力偵察だとかなり後々まで誤認していたそうですから救いようがありません。

 米軍上陸の報告を受け、海軍は三川軍一中将率いる第8艦隊を出動させます。第8艦隊の陣容は次の通り。


◇第8艦隊   旗艦:重巡「鳥海」
◆第6戦隊   重巡×4(古鷹、加古、青葉、衣笠)
◆第18戦隊  軽巡×2(天龍、夕張)、駆逐艦×1(夕凪)

 これに対し連合軍はターナー少将に率いられた重巡×6、軽巡×2、駆逐艦×8という大部隊で待ち構えます。昼戦は敵に制空権があり不利だと判断した三川中将は得意の夜戦で戦う事を決意しました。8月8日午後11時、第8艦隊は単縦陣を組みガダルカナル島エスぺランス岬とサボ島に挟まれた狭い海峡に突入します。後にこの海域は日本軍の輸送船や艦船が多く沈み方位磁針が狂うとまで噂され「鉄底海峡」と名付けられますが、その最初の戦闘がこれでした。世に第1次ソロモン海戦と呼びます。

 連合軍は敵がこの狭い海峡を突破して攻撃してくると予想していなかったため大混乱に陥ります。11時33分、上空に展開した味方水偵の照明弾投下を合図に、おぼろげながら浮かび上がった連合軍艦艇の影目指して第8艦隊の砲門が一斉に火蓋を切りました。同時に必殺の九三式酸素魚雷が次々と発射されます。

 この海戦で、我が軍は豪重巡「キャンベラ」米重巡「アストリア」「クインシー」「ビンセンス」を撃沈、米重巡「シカゴ」を大破させるという大戦果を上げました。一方第8艦隊は旗艦「鳥海」が被弾し24名が戦死したほかはほとんど損害がなく完勝という内容です。

 翌5月9日午前零時23分、再突入しての米輸送船団撃滅が検討されましたが三川中将は引き上げを決断、サボ島を反時計回りにぐるっと移動して帰途に就きました。後に「何故敵輸送船団を攻撃しなかったのか?」と三川中将の決断は批判されますが、夜明けの早い南海では午後4時には空が白み始めます。ぐずぐずしていると敵の航空攻撃を受け全滅しかねません。一刻も早く敵航空機の行動半径から離脱しなければならないのです。私は三川中将の判断は妥当だったと思います。そもそも最初のガタルカナル島飛行場建設の時点で間違っていたのです。近代戦では戦略の誤りを戦術でカバーするのは不可能です。

 ガダルカナル島の戦闘を担当するのはラバウルに司令部を置く陸軍の第17軍(百武晴吉中将)でした。米軍のガ島上陸を威力偵察だと誤認していた大本営は、第17軍に一木支隊(一木清直大佐、旭川歩兵第28連隊基幹)派遣を命じます。わずか3000名強の兵力で二万近くまで膨れ上がった米軍を撃退することは物理的に不可能です。しかし一木大佐には最後まで敵兵力が2000名弱だとしか知らされていませんでした。

 一木支隊は、先遣隊900名だけで8月21日未明、第一回総攻撃を敢行します。ところが待ち構えていた米軍の十字砲火を受け戦死者770名という信じられない大損害を受け壊滅。指揮官一木大佐も壮烈な戦死を遂げました。ところが大本営は、兵力の逐次投入という愚を繰り返します。次に投入されたのは川口支隊(川口清健少将、歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)でした。川口支隊も6000名ほどしかいません。

 川口支隊は最初から躓き先遣隊の上陸を米軍に察知され激しい空襲を受けます。護衛の駆逐艦1隻沈没、2隻大中破、輸送船も数多く撃沈され多くの兵が海に沈みました。結局川口支隊は兵力の3分の1しか上陸できず、その少ない兵力で攻撃せざるをえませんでした。9月12日夜、川口支隊は総攻撃を開始します。米軍はジャングルに仕掛けた集音マイクで日本軍の接近を察知し待ち構えていました。当然のごとく夜襲は大失敗。戦死者633名、負傷者505名、行方不明者75名という大損害を出します。

 ただ、米軍側も負けると分かっている戦場に鬼気迫る表情で突撃してくる日本兵に対する恐怖から精神に異常をきたすものが続出したと言われます。一木支隊、川口支隊の失敗でようやく大本営は事の重大性を悟りました。それまで両部隊には事態を楽観視し一週間ほどの食料しか持たせていませんでした。生き残った部隊も当然飢え始めます。制海権を奪われていた日本軍は「ネズミ輸送」と呼ばれる駆逐艦による高速突入してのドラム缶(物資を入れている)投下か潜水艦による補給しか手段が無くなります。アメリカは、駆逐艦による突入を「トウキョウ・エクスプレス」と呼び警戒しました。

 大本営は、第2師団のガダルカナル島派遣を決定します。その間ガ島近海では第2次ソロモン海戦(8月23日24日)、サボ島沖海戦(10月12日)、金剛・榛名によるヘンダーソン飛行場砲撃などが起こります。上空でもラバウルの海軍航空隊とガ島に展開した米陸軍航空隊、海軍機動部隊との激しい消耗戦が行われました。

 第2師団は、二万以上の兵力、200門の火砲、1個戦車連隊(75両)を集めて一気に米軍を叩こうとします。ところが時すでに遅く制海権も制空権も奪われヘンダーソン飛行場周辺は要塞化されていました。すでに上陸しジャングルで苦しんでいた川口支隊長は、正攻法では勝ち目が薄いので迂回攻撃を進言しますが大本営の馬鹿参謀辻政信の反対に会い罷免されてしまいます。第2師団の上陸も米軍に妨害され上手くいきませんでした。

 10月24日、日本陸軍の威信を掛けた第2回総攻撃が開始されます。しかしヘンダーソン飛行場の防備は厳重で米海軍の飛行隊が進出していました。日本軍は空陸から猛反撃を食らい3000名上の戦死傷者を出します。この後も大本営は兵力の逐次投入を繰り返し、航空消耗戦にも引きずり込まれました。

 11月12日から15日にかけて行われたガ島への兵力輸送を目的とした第3次ソロモン海戦は戦艦「比叡」「霧島」をはじめとする多くの艦艇を失い大失敗、ガ島の日本軍はますます苦境に立たされます。1942年12月31日、御前会議においてガダルカナルでのこれ以上の戦闘継続は不可能とされようやく撤退が決定しました。初動の判断ミスが巻き起こした悲劇と言い切るにはあまりにも大きな犠牲でした。情報軽視、判断ミスによって多くの死者を出した大本営エリート参謀の罪は重い。ノモンハン事件の責任を取らなかった服部・辻のコンビは第一級の戦犯だと私は考えます。

 ただ、撤退が決定してもすぐ実行できるわけではありません。1943年2月7日、最後の部隊がガダルカナル島を離れた時すでにガ島に上陸した総兵力3万の内2万以上の戦死行方不明者が出ていました。そしてその大半は餓死者と病死者でした。今なお多くの英霊が遺骨となって南海の島に残されています。空と海で散って行った英霊も数知れません。日本軍にとってガダルカナルの戦いとは何だったのでしょうか?私は大本営エリート参謀の暴走によって起こされた悲劇だったと思っています。