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日本の戦争Ⅴ  蘭印作戦1942年2月~1942年3月

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 日本がこの戦争で長期不敗の態勢を整えるには南方資源地帯をいかに早く抑えられるかにかかっていました。そのための真珠湾攻撃でありマレー作戦だったのです。オランダ領インドネシア(通称蘭印)とイギリス領ボルネオは石油の宝庫でした。とくに蘭印はスマトラ島パレンバンボルネオ島のバンジェルマシン、バリクパパンという大油井を抱え日本軍がここを制圧できるかどうかが戦争の帰趨を握っているといっても過言ではありません。

 陸軍は蘭印を攻略するため第16軍(今村均中将、第2師団基幹、第38師団は南方軍直轄から、第48師団は比島方面第14軍からそれぞれ転用、南海支隊【第55師団歩兵第144連隊基幹】、坂口支隊【第56師団歩兵第146連隊基幹】、川口支隊【歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹】)を編成します。ただし、マレー作戦がプノンペンの陸軍航空隊、仏印サンジャックの海軍航空隊から手厚い航空支援を受けていたのと比べると、制空権もなくいきなり敵前上陸しなければならない不利がありました。航空部隊が進出するにしてもまず上陸して敵地を占領しなければならなかったのです。

 海軍はこの方面に機動部隊を派遣する余裕はなく、重巡主力(妙高重巡4隻、妙高那智、羽黒、足柄)の第3艦隊(他に軽巡×5、駆逐艦×29、軽空母龍驤ほか)を派遣しました。一方、連合軍はABDA艦隊(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合艦隊)を編成しこれに対抗します。主戦場が蘭印という事で司令長官はオランダのドールマン少将に決まります。旗艦は軽巡デ・ロイテル。日本にとって幸いなことは、米海軍は真珠湾の痛手が回復しておらず空母は東太平洋に、イギリスも温存するため空母をインド洋においていた事でした。各地で敗退し蘭印に逃れてきた艦がほとんどでろくに共同訓練もできず、オランダ人のドールマン少将が英語を解さない(他の3国は当然英語で話す)という統帥上の不利もありました。

 第16軍のジャワ島上陸に先駆けてのバリ島上陸作戦途上の制海権を巡る戦いがバリ島沖海戦(1942年2月22日)です。陸軍の上陸部隊(金村支隊)を乗せた輸送船2隻を守っていたのはわずか駆逐艦4隻の第8駆逐隊(阿部俊雄大佐)でした。そこへドールマン少将率いるABDA艦隊(軽巡×3、駆逐艦×7)の大部隊が襲いかかったのです。まともに戦えば勝てるはずのない不利な状況でしたが、敵艦隊の連携の不備を衝き駆逐艦1隻大破、駆逐艦1隻小破という我が軍の損害に対し、駆逐艦1隻撃沈、軽巡1隻中破、駆逐艦1隻小破という互角以上の戦いを見せました。このあたり日本海軍の錬度の高さが想像できますね。

 次のスラバヤ沖、バタビア沖海戦は1942年2月27日から3月1日にかけて第16軍のジャワ島上陸を連合軍が阻止しようとして連続で起こります。第3艦隊は重巡×4、軽巡×2、駆逐艦×14、軽空母×1とこの方面に展開できる全力でこの戦いに臨みました。対する連合軍ABDA艦隊も重巡×2、軽巡×3、駆逐艦×9と稼働できる全兵力でぶつかります。

 一時は軍司令官今村均中将の座乗する輸送船が敵魚雷で撃沈され司令部全員が水浸しになるほどの危機でしたが、錬度に勝る日本艦隊は必殺の九三式酸素魚雷の威力も相まって敵の蘭軽巡デ・ロイテル、同ジャワ、蘭駆逐艦コルテノール、英駆逐艦エレクトラを撃沈するという大勝利をあげました。敵司令長官ドールマン少将も旗艦デ・ロイテルと運命を共にします。我が軍の損害は駆逐艦1隻大破のみ(スラバヤ沖海戦)。

 3月1日のバタビア沖海戦は夜戦で行われ残敵掃討のような戦いでした。ただこの戦いでは日本軍の損害も多く駆逐艦3隻大破、輸送船も撃沈されるなど少なくない被害を受けます。しかしABDA艦隊も重巡1、軽巡1、駆逐艦1を撃沈されほぼ壊滅、残存部隊はオーストラリアに逃亡します。こうして制海権を握った日本軍はようやく上陸作戦を開始しました。

 第16軍は、ジャワ島西部から第2師団が、東部からは第48師団が上陸しオランダ現地軍司令部があるジャワ島中部バンドンを目指します。これに先立ちスマトラ島パレンバンには陸軍の第1挺身団(空挺部隊)が、ボルネオ島には川口支隊と坂口支隊が、セレベス島には海軍陸戦隊が、それぞれ上陸占領していました。特にパレンバンの落下傘降下は有名で「空の神兵」と持て囃されたほどです。ただし空挺降下はセレベス島メナドの海軍陸戦隊の方が早く(1月11日)、陸軍は2月14日ですから海軍の方にももっと注目してほしいと個人的には思います。

 ジャワ島の陸戦自体は、一旦上陸してしまえば相手はオランダの現地軍だけでしたのでそれほど難しい戦いではありませんでした。3月1日上陸で、はやくも3月7日にはバンドン要塞攻略、3月8日オランダ軍降伏とスピード決着します。蘭印各地の石油施設もそれほど破壊されておらず修復可能で、蘭印の石油資源は日本の戦争継続に大きく寄与することとなります。ところが、生産はできても日本本土まで輸送するには莫大な輸送船量が必要で、連合軍の中でも特に米海軍はこの日本の弱点を見抜き潜水艦による通商破壊に全力を注ぎます。

 こうなると造船能力に不安のある日本は、しだいに損害を回復できなくなっていきました。輸送船団を護衛しようにもあまりにも戦線を広げすぎて回せる護衛艦艇が少なかったのです。通商破壊はボディブローのように日本の首を絞めていきます。蘭印作戦はもしかしたら日本の終わりの始まりだったのかもしれません。