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日本の戦争Ⅹ  ニューギニアの戦い1942年3月~1945年8月

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 ニューギニア島は日本列島の真南に位置し距離5000km。面積は日本のほぼ2倍という大きな島です。島の中央は険しい脊梁山脈が走り西からマケオ山脈、ビスマーク山脈、オーエンスタンレー山脈が連なります。どれも4000mから5000m級の高さを誇ります。高地を除き人跡未踏のジャングルが広がり人々は海岸沿いの町に点在して住みます。まともな道路などありませんから町は陸からは孤立し主な交通手段は海上連絡路のみでした。

 一見すれば、まともに占領もできないし占領しても維持するのが困難だと分かります。日本軍がこの地に目を付けたのは、米豪遮断作戦のためのニューギニア南東の要衝ポートモレスビー占領だけが目的でした。当然最初は海路からの占領を目指しますが、珊瑚海海戦の痛み分けでそれが不可能になります。ならば、ニューギニア進出は諦めて別の方策を見つけるべきでした。4000m級のオーエンスタンレー山脈越えの陸路でのポートモレスビー占領など物理的に不可能です。北岸のラエに上陸するのは可能でしょう。しかし補給はどうしますか?食料にしてもジャングル地帯での現地調達などできません。ラバウルからの海路が頼りです。逆に連合軍は、その輸送船団を空襲で叩けますし潜水艦による通商破壊も容易です。コースが分かっているんですから。

 山脈越えは、重砲は運べないし食料弾薬の携行も制限されます。連合軍はオーストラリア本土からの莫大な補給を受け休養十分でポートモレスビーで待ち受けるだけ。山越えでへとへとになった日本軍を空襲し放題ですし、陸戦になってもおそらくガダルカナル以上の十字砲火を浴びるのは確実です。どう考えても無理な作戦でした。


 この地に投入された日本軍将兵は最初から厳しいハンディキャップを背負っていたとも云えます。ニューギニアの戦いはガダルカナルインパールと並び三大悲劇と呼ばれますが、戦う前からそうなる事を運命付けられた絶望的な戦場でした。

 1942年3月8日日本軍は英委任統治ニューギニアのラエ、サラモアを無血占領します。最初に上陸したのは海軍陸戦隊と南海支隊の一部でいずれも数百人という規模でした。南海支隊は山脈に道を切り開く必要から独立工兵第15連隊を加え総勢一万名の兵力でしたが、計算上は部隊維持のために三万名の輜重兵が必要でした。ところがそれは用意されず、最低限の弾薬食料での進撃を強要されたのです。大本営エリート参謀の思い上がりには怒りを感じます。

 それでも南海支隊は、オーエンスタンレー山脈越えの困難な進撃を克服し、一ヶ月後ポートモレスビーまで50kmのイオリバイワまで到達しました。が、ここで補給が尽きます。部隊内にはマラリヤが蔓延していました。堀井支隊長は撤退を決断します。ところが撤退戦の方が困難なのは明らかで、追撃してきたオーストラリア軍のために甚大な損害を出しました。さらに北岸のブナやギルワにも米豪連合軍が上陸し南海支隊は前後を敵に挟み撃ちにされるという危機的状況になりました。

 ニューギニア方面を担当するのは第18軍(安達二十三中将)でしたが、南海支隊を救出するため山県支隊(独立混成第21旅団基幹、兵力一万)を編成し現地に送り込みます。待ち構える米豪連合軍に飛び込んだ形になった日本軍は、十字砲火を浴び玉砕相次ぎました。生き残った南海支隊もこの戦闘でほぼ壊滅します。

 ニューギニア方面を担当した米軍側の司令官はダグラス・マッカーサー大将でした。マッカーサーは指揮下に米第6軍(クルーガー大将、9個歩兵師団、1個空挺師団、1個騎兵師団)と豪陸軍(ブレーミー大将、6個歩兵師団)という大軍を擁します。一方日本軍は安達二十三(はたぞう)中将を司令官とする第18軍(3個歩兵師団、1個混成旅団)の他に第17軍の一部(南海支隊)、のちに増援として第8方面軍などから3個師団が加わったのみでした。数の上からも補給の上からも勝負にならないのは明らかです。おまけに日本軍はラバウルの海軍航空隊とニューギニアに進出した陸軍の第4航空軍で稼働機は500機もなかったように思えます。この辺り資料が少ないのであくまで推定ですが…。一方連合軍はこの方面に1000機を優に超える大航空戦力を投入しました。

 1942年6月の時点で第18軍と米豪連合軍の兵力差は数倍、火力に至っては我が軍が敵の百分の一という絶望的状況になります。無意味な戦場では一刻も早く撤退させるのが常道でしたが、この期に及んでも大本営のエリート参謀は逆転を夢見ていたそうですから正気を疑います。そしてそれはダンピール海峡の悲劇として具現化しました。

 1943年3月、大本営は絶望的なニューギニア方面にまたしても日本軍の悪癖である兵力の逐次投入をすべくラバウルから増援の第51師団を乗せた輸送船団を出港させます。護衛として第3水雷戦隊(木村昌福少将、駆逐艦×8)と軽空母「瑞鳳」(27機搭載+補用3機)、ラバウルの基地航空隊がつきました。輸送船団はニューブリテン島とニューギニアに挟まれたダンピール海峡に差し掛かります。米軍の爆撃機B-24は日本軍の動向を索敵し逐一報告し続けました。ポートモレスビーを発進した戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機の合計268機の大編隊が一気に日本軍輸送船団に襲いかかります。直掩の零戦隊はラバウルの基地航空隊を合わせてもわずか60機。

 零戦隊は瞬く間に蹴散らされ、無防備になった輸送船団は連合軍の猛爆撃を受けました。この時敵はスキップ・ボミングという新戦術で攻撃し、我が軍は駆逐艦4隻沈没、輸送船は8隻全部が撃沈されます。完敗でした。連合軍は漂流する日本兵に対して機銃掃射するという鬼畜の行為をします。日本軍はこの戦いで3000名の将兵と2500トンの物資を失いました。

 数倍の敵を受け第18軍は、ニューギニア北岸を海沿いに西に向かって撤退します。といってもジャングルで道はないのですから困難な行軍でした。撤退する日本軍を追うように連合軍は1943年9月16日ラエ奪還、同年12月25日米軍ニューブリテン島西部マーカス岬上陸、1944年3月連合軍ホーランジアの日本軍航空基地空襲、同年4月22日米軍ホーランジアとアイタペに上陸、同年5月17日米軍サルミ上陸、5月22日ビアク島上陸、同年7月30日米軍サンサポール上陸と撤退する日本軍を追い詰めていきました。

 8月15日終戦の時、ニューギニアの日本軍は西部に追い詰められていました。幸いな事に連合軍はその矛先をフィリピン、沖縄と北上させこの方面はオーストラリア軍に任せていたため現地自活を成功させた日本軍は持久戦で持ちこたえます。そして終戦を知らずに戦い続け、第18軍が連合軍に降伏したのは9月13日の事でした。ニューギニア方面に投入された日本軍兵力は20万、そのうち生還できたのはわずか2万名です。

 誰が考えても勝てるはずが無いニューギニアに介入を決断した大本営エリート参謀の罪は重い。そして不利が明らかになっても撤退という選択肢を選ばず兵力を逐次投入して消耗させ続けた事は万死に値すると思います。

 降伏後、第18軍司令官安達二十三中将は戦犯として終身刑の判決を受けます。彼は部下の無実を訴え責任をすべて背負いました。そして拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を言い戦犯収容所内で割腹自殺を遂げます。すべての責任をかぶって自害した安達中将と、戦後も責任を取らずのうのうと生きながらえた大本営のエリート参謀、立派なのはどちらでしょうか?みなさんにも良く考えてほしいのです。