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日本の戦争15  沖縄決戦1945年3月~6月 (終章)

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 これまで大東亜戦争で代表的な戦闘をピックアップして見てきたわけですが、ここである程度軍事知識のある方に質問です。軍事に興味のない方や初心者の方はスルーしてください。

 日本軍が守るA、B、C、Dの島があるとします。守備兵力はそれぞれ1個師団。アメリカ軍の攻撃目標が最重要拠点A島だという情報が入り、A島に他島から増援を送る事になりました。さて皆さんはどのように増援を送りますか?史実通り輸送船も護衛の艦艇もぎりぎり、ただし無理してかき集めれば3個師団程度なら同時に運べるとしましょう。

 各人、増援の仕方を考えられたと思います。ところが当時の大本営陸軍部つまり参謀本部エリート参謀の採った方法は最悪でした。泥縄式にとりあえずA島に近いB島から増援を送ろう。A島の次はB島だからB島にはC島から増援を送ろう。A島にはD島からも増援を送れば良いだろう。これを軍事的には兵力の逐次投入と呼び兵家がもっとも忌む方法です。様々な意見があると思いますが、私ならA島が失陥したらこの地域全体の防衛計画が狂うからA島に全兵力を集めるべきだと考えます。

 兵力の逐次投入はアメリカ軍にその都度迎撃され海没する(史実でもそうなった)から、限られた輸送船団と護衛艦隊はできるだけ集中させたい。そのためには無理してもまずB島にC島、D島の兵力をかき集め合計3個師団で一気にA島に増援を送り込む。ある程度は損害があるだろうが、輸送は一回で済み悪くても6~7割程度は揚陸できるだろう。そうなるとA島は実質3個師団の兵力で守る事が出来る。私の意見が絶対だとは言いませんが、これがロジスティクスの考え方なんです。どのように行動すれば一番効率が良いか、最大の効果を発揮するかという概念です。

 何故最初にこんな事を書いたかと言えば、沖縄戦の前段階での大本営がまさに上記の愚かな決定をしたからです。大本営アメリカ軍が沖縄に来るか台湾に来るか判断に迷っていました。どちらを優先して守るかも一長一短があり、もし台湾が失陥したら大陸にいる支那派遣軍は完全に孤立します。一方、沖縄を失うとP-40やP-47など比較的航続距離の短い戦闘機も爆撃機エスコートができ、本土防空戦は非常な困難になります。

 私は、こういうときは優先順位を決めドライに切り捨てる覚悟も必要だったと考えます。台湾を失陥しても沖縄の航空基地が健在なら航続距離の短い戦闘機は爆撃機隊のエスコートができず、硫黄島のP-51マスタングだけに注意を払えばよくなります。大陸の陸軍師団は可及的速やかに満洲仏印に撤退し、上海からも日本本土に戻すべきだったと思います。当時台湾には3個師団の守備兵力がありましたが、そこに数個師団増援したところで焼け石に水。広大な台湾を守りきれるものではありません。最終的にはフィリピンのように山岳地帯で持久戦をせざるを得ないのです。となれば最初にいた3個師団で十分です。一方、沖縄は狭い島なので1個師団でも増えればそれだけ有効な防衛戦が行えます。実際、最初沖縄の第32軍(牛島満中将)は第9師団、第24師団、第62師団、独立混成第44旅団と十分な防衛兵力を持っていました。

 第32軍は、3個師団、1個旅団で防衛計画を策定し準備します。ところが大本営は台湾防衛の不安から第32軍に最精鋭の第9師団を抽出するよう命じました。第32軍は猛反発しますが、上級組織である大本営には逆らえず泣く泣く第9師団を台湾に送り出します。その代わりとして大本営は第84師団を増援として送ると約束しますが、結局それは履行されませんでした。

 こうして当初の作戦計画を大きく狂わせた第32軍は、2個師団、1個旅団の兵力で陣地構築・変更を急ピッチで進めます。一方アメリカ軍は沖縄戦を戦争の天王山と考え空前の大兵力を集めました。まず海軍スプルーアンス大将率いる第5艦隊から。

◇第5艦隊(スプルーアンス大将)

◆第58任務部隊(ミッチャー中将) 空母×15、戦艦×8、重巡×4、軽巡×11、駆逐艦×48、艦載機×919

◆第54任務部隊(デイヨー少将) 戦艦×10、重巡×9、軽巡×4、駆逐艦×23

◆英機動部隊(ローリングス中将) 空母×4、戦艦×2、軽巡×4、駆逐艦×12、艦載機×244


上陸する陸軍の陣容は

◇第10軍(バックナー中将)

◆第24軍団(ホッジ少将) 第7歩兵師団、第96歩兵師団

◆第3海兵軍団(ガイガー海兵少将) 第1海兵師団、第6海兵師団

◆(軍直轄) 第27歩兵師団、第77歩兵師団、第2海兵師団

総兵力は艦艇1317隻、人員45万2千名という大部隊です。当時これほど大規模な上陸作戦を行えるのはアメリカ軍だけ、おそらく現在でもそうでしょう。対する日本軍は9万弱の兵力で戦わなくてはなりません。大本営は沖縄を本土決戦の時間を稼ぐための捨て石だと考えていました。しかし現地の第32軍は、沖縄の民間人の犠牲を可能な限り少なくするため本土への疎開大本営に訴えます。ところが輸送船が集まらず、学童疎開の児童を乗せた対馬丸アメリカ軍潜水艦に撃沈された事もあり断念されました。第32軍は、次善の策として主戦場が沖縄本島南部になる予想から、民間人を北部に移動させようとします。しかし軍を信頼しきっている沖縄県民は軍と行動を共にする決意をしました。これが民間人10万人の犠牲の悲劇となります。

 ですから、軍が強制的に沖縄県民に犠牲を強いたのでは絶対にありません。当時の資料を調べれば簡単に分かる話です。沖縄戦の実態が反日左翼によっていかに歪められたか、これではお国のために死んでいった英霊も、協力した沖縄県民も浮かばれません。私は自分たちの先祖すら冒涜する沖縄左翼を絶対に許しません。


 沖縄戦は、1945年3月末米機動部隊の大空襲から始まりました。沖縄はもとより沖縄に増援を送る可能性のある九州や四国、中国地方の日本軍航空基地、戦略拠点を徹底的に叩きます。これに対し日本軍は海軍の第5航空艦隊(基地航空隊、司令部は鹿屋、宇垣纏中将)を中心に迎撃し敵空母3隻に損害を与えますが、我が方も戦力の過半数を失いました。以後、日本軍は特攻しか手が無くなります。

 1945年4月1日、ついに米軍が沖縄本島に上陸を開始します。上陸当初、日本軍の反撃が無かったので米兵は「エイプリル・フールか?」と怪しんだそうです。ところが内陸に進むにつれ激しい反撃に晒されます。劣勢の第32軍の作戦は内陸持久でした。この時反斜面陣地戦術を駆使し米軍を苦しめます。これは第32軍高級参謀八原博通大佐の考案でした。劣勢の側が取る理想的戦術だと言えます。詳しくは過去記事を参照してください。

 日本海軍も、なけなしの兵力を絞り出し菊水一号作戦と称する水上特攻を開始しました。第2艦隊(伊藤整一中将)の戦艦×1(大和)、軽巡×1(矢矧)、駆逐艦×8が、沖縄に突入し陸上砲台と化して撃ちまくるというものです。栄光の日本海軍で動ける艦艇はもはやこれだけしかありませんでした。伊藤長官は最初この無謀な作戦に大反対していたそうですが、説得に来た軍令部三上参謀の「一億総特攻のさきがけとなってもらいたい」という言葉に「それならばよく分かった」と承知したそうです。海軍でも有数の合理的頭脳の持ち主でかつては連合艦隊参謀長も務めた伊藤長官の胸中は複雑だったと思います。ただ全員を無駄に殺す事に忍びなく、伊藤長官は少尉候補生67名ほか未来を担う若者を中心に退艦させました。

 1945年4月6日、第2艦隊は徳山湾を出航します。豊後水道から九州東海岸沿いに南下、行く先秘匿のため大きく西に向かい甑列島南西に至ります。そこから南下して沖縄に到達する予定でした。ところが4月7日午前8時、第2艦隊は第58任務部隊の索敵機に発見されます。ミッチャーはすぐさま攻撃機隊を発進させ、数百機の艦載機が波状攻撃をしてきました。多勢に無勢、鹿屋や知覧の航空基地からの直掩も間に合わず空前の巨大戦艦大和軽巡矢矧、駆逐艦4隻と共に満身創痍になりながら沈没します。伊藤長官も運命を共にしました。その位置は徳之島北方200海里、水深340mの地点です。これで日本海軍は事実上壊滅します。沖縄の第32軍も完全に孤立しました。

 それでも日本軍は、嘉数や安里52高地(米軍呼称シュガーローフヒル)の戦いで互角以上の戦いを見せ米上陸軍を苦しめました。そして6月23日沖縄本島南端摩文仁の丘に追い詰められた第32軍司令部は軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決し組織的抵抗は終わります。その後も残存兵は終戦まで戦い続けたそうです。

 沖縄の失陥によって事実上戦争は決着します。その後8月6日広島に原爆投下、8月8日ソ連宣戦布告、8月9日長崎原爆投下でついに日本は力尽き、8月15日ポツダム宣言を受託し降伏するのです。大東亜戦争を後に侵略戦争だと非難する者がいます。しかし、本編では触れませんでしたが私はアメリカに石油を止められこのままでは戦わずして亡国となる、座して死を待つくらいならと起こしたぎりぎりの自衛戦争だったと思います。国際法では自衛戦争に宣戦布告の必要はないそうです。ということは真珠湾の騙し討ちも言いがかりになります。東京裁判でインドのパール判事が述べたそうですが「ハルノートのようなものを突き付けられたらどんな小国でも戦争を決意するだろう」という言葉が真実を語っているような気がします。