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真田氏の上州侵攻   前編

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 群馬県新潟県の境三国山系大水上山に源を発し南流、伊勢崎市付近で神流川と合流し東南に向きを変え太平洋にそそぐ日本第二(流域面積は日本一)の大河利根川群馬県の中部、利根川を挟んで西に榛名山、東に赤城山という日本有数の名山を抱く眺めは壮観です。かつて上野国と呼ばれたこの地は、榛名山赤城山を境に北は山間部、南は平野と対照をなします。

 日本内陸交通の大動脈中山道も、上野では山間部を避け碓氷峠から榛名山の南麓を通り関東に至ります。では榛名山の北には道がなかったかというとそうでもなく鳥居峠から高崎に至る信州街道、草津峠から入って信州街道と合流する善光寺道がありました。ただこれらの道は、榛名山に近づくと大戸関から南に進路を変え、榛名山北麓を通って吾妻、沼田方面に至る道は裏道という扱いでした。

 しかし、この道は戦国時代真田氏が上野国に進出した道でもありました。真田氏は本拠信濃国小県(ちいさがた)郡から鳥居峠を越え吾妻川沿いに東進、沼田に至ります。沼田藩真田信之に始まり長男信吉が継ぎ、信吉の息子信利の代に改易されました。真田本家は信之の次男信政が継ぎ信州松代十万石として幕末まで続きます。信吉と信政の真田領継承はそれだけで一本記事が書けるほど複雑なのでここでは触れません。ただ、真田氏がどのように沼田城を奪い領土化したか興味深いのでご紹介しましょう。



 真田氏は、信州から上州に広がる滋野一族の嫡流海野氏、根津氏、望月氏のうち海野氏の出身だと言われます。滋野氏の出自に関しては清和天皇の第四皇子貞保親王説、紀氏と同族説などあってはっきりしません。ただ信濃国小県郡を中心に信州、上州に拡大したのは確かです。

 真田氏は、実質的初代幸隆(1513年~1574年)に始まります。信濃国小県郡真田郷の国人(小領主)だった幸隆は1541年(天文十年)甲斐守護武田信虎(信玄父)、諏訪頼重村上義清が連合して海野一族を攻めた海野平合戦で敗北、故郷を追われ上州に逃れます。この時滋野一族のネットワークが役立ったに違いありません。

 後、信虎の子晴信(出家して信玄)に仕えた幸隆は、信濃先方衆として主に信濃国人の調略を担当大きな功績を上げます。真田氏が複雑な婚姻関係を信濃の豪族たちと結んでいた事が大いに役立ちました。例えば幸隆の長男信綱の正室は北信濃の豪族高梨政頼の娘で、政頼の妹は村上義清の側室です。

 幸隆の滋野一族ネットワークは武田信玄信濃侵略に大いに役立ち信玄が上野に目を付けると、またしても幸隆が起用されます。信玄は兵を率い碓氷峠を越え松井田城、箕輪城と攻略を進めると同時に幸隆に上野の豪族たちの調略を任せたのです。

 幸隆は、おもに鳥居峠を越えて滋野一族が多い榛名山の北側の国人たちに働きかけました。郡で言えば吾妻郡、利根郡です。幸隆の上野国における本格的活動は第四次川中島合戦(1561年)の後だと言われます。当時上州吾妻郡では海野一族の内紛が起こっていました。かつて幸隆が故郷を追われた時保護してくれた羽尾氏が鎌原氏と争い、その鎌原氏が幸隆を頼ってきたのです。羽尾氏の背後には岩櫃城(吾妻郡吾妻町)主の斎藤氏がいました。

 幸隆は鎌原氏を支援し、1563年(永禄六年)武田家の援軍も含めた三千の兵で斎藤氏、羽尾氏が籠る岩櫃城を攻略、この戦いで幸隆の恩人羽尾幸全(ゆきてる)は討死します。岩櫃城主斎藤憲広は上杉謙信を頼り越後に逃亡しました。戦国の世の習いとはいえ悲惨な話です。この戦いは武田氏と上杉氏の代理戦争という側面もあり、海野一族はそれに巻き込まれたのです。

 真田幸隆は、以後この岩櫃城を根拠地に北上野調略を進めます。幸隆は、根津氏、海野氏とともに武田家の西上野在番衆となりました。怒った謙信は、川中島合戦の最中にも関わらず重臣の藤田信吉らに二千の兵を授け真田氏を攻めさせます。幸隆は手元に千の兵しかありませんでしたが、地形を巧みに利用しこれを防ぎ切りました。

 幸隆は1565年(永禄八年)岳山城、1567年(永禄十年)白井城を攻略し西上野に着々と浸透します。幸隆は外様ながら功績を重ね武田家の譜代同然の扱いにまでなっていました。幸隆は1567年(永禄十年)病気のため家督を嫡男信綱に譲って隠居します。そして1574年(天正二年)信濃国戸石城で亡くなりました。享年62歳。