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信濃の南北朝Ⅰ  鎌倉時代の信濃

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 信濃国、現在の長野県は本州中央部に位置し二千メートル級の山岳が連なる山国です。人々は善光寺平、松本平、上田平などいくつかの盆地に集住し交通網の発達する以前には一国としてのまとまりに欠く状況でした。中世この国に盤踞した信濃守護小笠原氏ですが、本拠府中(松本市)のある筑摩郡、伊那郡など信濃の中部から南部にかけてしか支配権を確立できず、北信に村上氏、高梨氏、安曇郡には仁科氏、諏訪地方は古代からの聖地諏訪大社の大祝(おおはふり)から武士団化した諏訪氏など有力豪族がひしめいていたのです。
 
 諸豪族分立状態が続いた信濃は、混乱状態を続けたまま戦国時代に突入します。では小笠原氏に信濃統一のチャンスはなかったのでしょうか?実は何度か小笠原氏は信濃一円支配に成功しているのです。しかしその時々の関東や中央の幕府の状況に翻弄され短期間で覆される連続でした。南北朝時代信濃は、その数少ないチャンスの一つだったと言えます。本シリーズでは、信濃がどのように混乱し戦国時代に突入していったか、中先代の乱と宗良(むねなが、むねよし)親王の活躍を軸に描こうと思います。
 
 
 第一回は信濃がどのように南北朝時代に突入していったかその前史を描きます。その前に信濃と重要な関わりを持つ甲斐国山梨県)、特に甲斐源氏の歴史を記しましょう。甲斐源氏とは河内源氏嫡流八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に始まる一族です。義光の曾孫の時代に武田信義、加賀美遠光、安田義定という有力な兄弟がでました。この世代が頼朝の鎌倉幕府創設時代に当たります。
 
 甲斐源氏は、富士川の合戦で頼朝に味方し北方から平家軍を攻め勝利に貢献しました。その後も数々の合戦で武勲を上げ嫡男信義は本拠甲斐守護、弟の加賀美遠光は信濃守、安田義定遠江守護を拝命します。ところが頼朝は、自分のライバルになりえる源氏一族を生かすつもりはありませんでした。最初は同じ新羅三郎義光流の常陸源氏佐竹秀義を討ちます。佐竹氏はのち許されるも一御家人に落とされ鎌倉時代は不遇でした。甲斐源氏に対しては、武田信義後白河法皇から頼朝討滅の密勅を受けたという嫌疑をかけ、信義が無実を訴えたものの、信義がもっとも期待していた長男一条忠頼を些細な罪で誅殺しました。
 
 次に、従五位下遠江守、遠江守護という朝廷と幕府の要職を独占し甲斐源氏で最も栄えていた安田義定が頼朝の標的となります。些細な罪で義定の長男義資を殺すと、父義定にも連座の罪を問い反逆者として安田一族を攻め滅ぼすのです。猜疑心の強い頼朝の鎌倉幕府防衛策だったのでしょうが、巻き添えを食らった源氏一族は悲惨でした。
 
 武田一族では、信義の四男信光が頼朝の側近だった事から可愛がられ信光の子孫が武田家嫡流となりました。
その他、同じ新羅三郎義光流の佐久源氏平賀氏も朝雅が北条一族の内紛に巻き込まれ殺されています。頼朝の巧妙なところは、一族全部を滅ぼすのでなく一部だけを優遇し内部分裂を図ったところです。新田足利の関係も頼朝の巧妙な一族分裂策だったと思います。武田信義は、息子や兄弟たちが次々と頼朝に粛清されて行く姿を見て衝撃を受け病を得て寂しく亡くなります。
 
 加賀美遠光は、頼朝によって信濃守に就任しますが信濃守護にはなれませんでした。その信濃守でさえ現地に赴任できず、目代国司の現地における代官)には頼朝の重臣比企能員(よしかず)が補されます。そして信濃守護になったのはこの比企能員でした。名目上遠光を祭り上げ、信濃の実権は頼朝直系の比企氏が握ったのです。頼朝が甲斐源氏を信用していなかった何よりの証拠です。
 
 信濃国は、頼朝に敵対した木曽義仲の本拠地で義仲所縁の豪族も多かったため甲斐源氏の支配に任せるとこれらの不満分子と組んで幕府に反抗する可能性を恐れたのでしょう。加賀美遠光は小笠原氏の祖となりますが、鎌倉時代を通して小笠原氏は不遇でした。ただ承久の乱で武功を上げた事から、小笠原氏は四国阿波の守護職を得ます。阿波に渡った小笠原一族は三好氏(戦国時代の三好長慶で有名)を称しました。ですから信濃小笠原氏と阿波三好氏は同族なのです。
 
 1203年比企能員が幕府内の権力争いに敗れ北条時政に暗殺されると、信濃守護には時政の嫡男義時が任命されます。それだけ信濃は重要な土地だったのでしょう。義時は、小笠原氏の頭越しに信濃の有力豪族諏訪氏、滋野一族ら神党(諏訪氏を中心とし諏訪大社の氏子で構成された血縁、地縁のある武士団)を従え北条得宗家(執権義時の子孫で北条氏嫡流)の被官化します。諏訪氏にとっても幕府の主権者である北条得宗家と結びつく事は得策で、両者の利害が一致したのでしょう。
 
 信濃は、鎌倉時代を通じて北条得宗家の権力基盤であり続けます。そんな信濃の豪族たちにとって青天の霹靂だったのは1333年鎌倉幕府の滅亡でした。そしてその余波は信濃にも波及します。次回、信濃国を大混乱に陥らせた中先代の乱を描きましょう。