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南部氏糠部(ぬかのぶ)郡入部の謎

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 陸奥南部氏と云えば、南北朝、戦国という激動の時代を生き抜き盛岡十万石(のち二十万石)の大名として幕末まで続いた一族です。しかし歴史の中で登場したのは南北朝時代。鎌倉以来の歴史を誇る一族ではありますが、陸奥下向以来南北朝までの動向が謎なのです。

 南部氏は甲斐源氏加賀美遠光の流れです。遠光の兄信義は武田氏の祖となります。遠光の子孫からは信濃守護小笠原氏が出ています。遠光の三男光行は甲斐国巨摩郡南部邑を領して南部氏を称しました。光行は父遠光と共に源頼朝鎌倉幕府創建に尽くし、奥州合戦の恩賞で糠部五郡を賜ったとされます。

 ところが、糠部五郡という表現もおかしいしそもそも南部氏が糠部郡全体の地頭となった形跡がないのです。一般には糠部五郡を糠部、岩手、閉伊、鹿角、津軽のことだとされます。ところが調べてみると糠部・岩手郡には工藤氏が、鹿角郡には成田氏が、津軽郡には曽我氏と地元豪族の安東氏がそれぞれ封じられ地頭となっています。もちろん糠部郡は広大なのでその一部の地頭となった可能性は高いですがとても五郡を賜ったというような表現にはならないと思います。

 この五郡を眺めて戦国時代に詳しい方ならピンと来たと思いますが、実はこの領域戦国時代南部氏が征服した最大版図なのです。おそらくこれらの領土支配の正当性を訴えるために捏造した可能性が高いと睨んでいます。

 では、南部氏の実像はどうだったのでしょうか?少なくとも南部氏は史書に頼朝側近として登場しますし南北朝時代大活躍しますから糠部郡と全く関わりが無かったとは言えません。おそらく何らかの関与をしていたはず。ここで視点を変えて現地の地名に着目します。

 三戸とか八戸とか、この地域に戸がつく地名が多いことに気づかれた方も多いと思います。実はこれ「青森県の歴史」(宮崎道生著 山川出版)によると牧(官営の牧場)の単位なのだそうです。一戸から九戸まであり、九つの牧があったとされます。同書では南部氏はこれらの牧の管理者ではなかったかと推定しています。そういえば工藤氏にしても曽我氏にしても牧に関係する一族です。

 鎌倉幕府は、陸奥の牧の管理者としてこれらの御家人を送り込んだのではないでしょうか?馬と云えば、武士にとって重要なものです。陸奥は名馬の産地。鎌倉幕府陸奥支配の重要な要素の一つとして優秀な軍馬の確保を目指したのでしょう。

 鎌倉時代末期、糠部郡は北条得宗領(義時の子孫で北条氏嫡流)になります。南部氏は、牧の管理者として糠部郡地頭代としてこの地を支配したのでしょう。米の生産力は低い土地ですが、優秀な軍馬を管理していたとしたら南部氏が拡大した理由も納得できます。

 皆さんはどう考えられますか?