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真田氏の上州侵攻   後編

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 真田幸隆正室恭雲院(真田家老河原隆正娘)との間に四人の男子をもうけます。すなわち信綱、昌輝、昌幸、信尹(のぶただ)です。家督を継いだのは長男信綱。次男の昌輝も武田家中の有力家臣でした。三男昌幸は幼少期武田家に人質として出されそのまま信玄の母系大井氏の支族武藤氏の養子になり武藤喜兵衛と名乗ります。昌幸は信玄の奥近習衆から足軽大将になっていました。

 真田家は長男信輝を柱に兄弟が結束し安泰かと思われました。ところが、1575年(天正三年)長篠合戦(設楽ヶ原合戦)で当主の信綱、次男の昌輝が戦死するという悲劇に見舞われます。三男昌幸は、何事もなければ武藤家を継ぐはずでしたが、勝頼の命により真田宗家を継ぎ信濃国小県郡真田庄、上野国吾妻郡を領することとなりました。

 長篠合戦で織田徳川連合軍に敗北した武田勝頼は、1578年(天正六年)越後の上杉謙信没後に起こった御館の乱で謙信の養子景勝に味方し甲越同盟を結びます。この時の武田上杉の話し合いにより当時北条氏政が上杉家から奪っていた東上野、沼田領を武田家が攻略しても良い事になりました。上杉家としては景勝が継承したばかりで上野にかまっている余裕がなかったのでしょう。

 勝頼は、昌幸に沼田領攻略を命じます。昌幸は沼田城を攻略する前進基地として1579年(天正七年)沼田城を望む利根川上流右岸にあった北条方の名胡桃城(利根郡みなかみ町下津)を奪取します。もともと沼田城国人領主沼田氏の城でした。ところが御館の乱の時、実弟上杉景虎(謙信養子)を助けるため北条氏政が攻め落とし、城将として猪俣邦憲、藤田信吉らを置きます。ちなみにこの藤田信吉という人物、北条→武田→上杉→徳川と渡り歩き江戸初期に大名となる面白い人物です。

 当時昌幸は安房守と名乗り始めます。もちろん自称ですが真田安房守昌幸の武名はここから始まりました。昌幸は名胡桃城を戦略拠点とし伯父矢沢綱頼(幸隆弟)に沼田城を攻めさせます。これと併せ得意の調略を駆使し城将の藤田信吉らを寝返らせ沼田城を落としました。同時に利根郡新治村の猿ヶ京城も攻略します。

 1581年(天正九年)昌幸が勝頼の命で甲斐新府城築城に出向くと、会津に亡命していた沼田城の元領主沼田景義が旧領奪回をはかり蜂起します。沼田城の在番衆にも景義の親戚金子泰清がいたため昌幸は危機を迎えました。ところが昌幸は、金子泰清に莫大な恩賞を約束し景義を謀殺させ事なきを得ます。
 
 危機はこれで去らず、今度は北条氏政が沼田在番衆の海野幸光を内通させ蜂起させました。海野氏は真田氏の本家で幸光も海野宗家そして真田家に近い人物だったと伝えられます。昌幸は伯父矢沢綱頼と協力して海野幸光を自害に追い込みようやくこれを収めました。

 衰亡する武田家の中で真田安房守昌幸は上野北部吾妻郡、利根郡をほぼ掌握するという大功を上げます。しかし1582年(天正十年)、主家武田家が織田信長の大軍に攻められ滅亡するという大事件が起こりました。昌幸は、主君勝頼へ自領の上野国岩櫃城に籠城するよう勧めますが勝頼はこれを断り小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)へ向かいました。ところが小山田信茂はすでに織田家に内通しており織田軍先鋒滝川一益の軍勢が背後に迫る中、小山田軍にも行く手を塞がれ武田勝頼は近臣と共に天目山で自害して果てます。

 この時、勝頼が昌幸の勧めに従っていたらもしかしたら武田家は滅亡しなかったかもしれません。そのすぐ後に織田信長が家来の明智光秀に叛かれ本能寺で横死するのですから。ともかく武田家の滅亡で真田氏は戦国の荒波に単身放り出される事になりました。

 選択を誤ると滅亡します。昌幸は頼る先を織田信長重臣滝川一益に決めました。織田家としても、信濃、上野に隠然たる勢力を持つ真田氏と敵対するのは得策でないとの判断から昌幸の降伏を容れます。昌幸は本領安堵され滝川一益を補佐し関東経略に協力することとなりました。

 その直後の同年6月2日、本能寺の変が起こります。後ろ盾を失った滝川一益は慌てて本国伊勢長島に逃げ帰りまたしても昌幸は孤立します。武田旧領は力の空白を生み周辺の北条氏政徳川家康上杉景勝の草刈り場となりました。この三者の争いを天正壬午の乱と呼びます。

 昌幸はまず北条氏に属しました。ところが北条氏政は沼田領への執着を捨てておらず、昌幸は今度は徳川家康に寝返ります。徳川方からも誘いがあったのでしょう。昌幸はいずれ沼田領を巡って騒乱が起こると考え1583年(天正十三年)本拠小県郡上田の地に城を築きました。すなわち上田城です。

 昌幸の予想通り、徳川と北条は間もなく和睦しその条件の一つとして沼田領の引き渡しを求めました。家康は真田家に使者を送り沼田領を北条方に引き渡すように命じますが、自らの血で勝ち取った沼田領は手放せないと昌幸はこれを拒否します。そして越後の上杉景勝に使者を送り服属しました。この時人質として昌幸の次男信繁(一般には幸村の名で有名。ただし生前幸村と名乗った事実はない)を送りました。

 怒った家康は、1585年(天正十三年)大久保忠世平岩親吉鳥居元忠らを大将とする七千の兵を送り上田城を攻めさせます。これが第一次上田合戦です。真田勢はわずか千二百の小勢でしたが、地形を巧みに利用し上田城の近くまで徳川勢を引きつけてから神流川に設けた堤防を決壊させました。多くの溺死者を出した徳川勢は一旦後退しますが、そこを待ち構えていた真田勢は昌幸が上田城から、長男の信之(当時は信幸)が戸石城から従兄弟の矢沢頼康は矢沢城から討って出、徳川軍の背後から襲いかかりました。

 徳川勢は散々に撃ち破られ戦死者千三百名という大きな損害を出しました。一方真田勢の損害はわずか四十名、昌幸の一方的勝利です。これに懲りた家康は、上田城攻めを手控えます。上州沼田城に攻め込んだ北条勢も撃退した昌幸は、日の出の勢いの豊臣秀吉に使者を送り服属しました。

 こうして昌幸は、秀吉から信濃小県郡、上野吾妻郡、利根郡沼田領の本領安堵を勝ち取ります。寡兵を持って徳川の大軍を打ち破った昌幸の武名は天下に轟きました。

 1590年(天正十八年)の北条征伐は、氏政・氏直の上洛問題と共に上州沼田領の帰属問題がきっかけでした。北条と秀吉の話し合いで、沼田領は真田家が沼田城を明け渡し名胡桃城以西を保持するという約束でしたが、北条方が約束を破って名胡桃城まで奪った事で征伐の理由となったのです。

 昌幸は本領の信濃国小県郡を保ち、沼田領は長男の信之に任せました。1600年に関ヶ原合戦の時、再び上田城を巡る徳川方との合戦(第二次上田合戦)が起き、ここでも昌幸は次男信繁と共に二千の兵で徳川秀忠率いる三万八千の大軍を翻弄しました。

 しかし関ヶ原の合戦は西軍が敗北、徳川方に属した長男信之の嘆願で昌幸、信繁は命だけは助けられますが本領は没収され紀州九度山に追放されます。1611年(慶長十六年)昌幸は紀州九度山で波乱の生涯を閉じました。享年65歳。

 次男信繁は父昌幸の遺志を継ぎ大坂城に入城、真田家の武名を後世に残しました。長男信之は、家名を残す道を選び信州松代十万石、上州沼田三万石(こちらは後に改易)を獲得します。松代藩真田家は明治維新まで続きました。